…遠くで、布に何かが落ちる音がした。
圧迫感が消える。
喉に空気が、肺に酸素が、大きく入り込んでくるのを感じた。
彼は喉に手をやり、せき込みながらゆっくりと身体を起こした。
白い布の雲の上で、男は、黒い蜘蛛の糸に絡まっていた。
少なくとも、彼にはそのように見えた。
「…オリイ…」
「生きててよかったね。G」
オリイはにっこりと笑った。初めて見る、表情だった。
シャンブロウ種だ。彼は記憶の中のその単語を取り出す。
蜘蛛の糸に見えたのは、オリイの長い髪だった。
それは普段の六弦弾きの、その髪の長さどころではない。身長を遙か越え、のけぞる男の身体にきつく巻き付き、そして強く締め付けている。下手すると、あの時のような刺激が、そこにはあるのかもしれない。
そしてその長い黒い髪は、彼の無事を確認すると、するりとひとりでに男の身体から離れていく。重力を無視し、首をぐるりと回すにつれて一度空中に広がったその髪は、まるでそれが一つの生き物のように、彼には見えた。
シャンブロウ種。
その名前は、遠い昔に作られた物語に由来するという。天使種同様の、共生体型の進化をした種族だった。
詳しくは彼も知らない。ただ、その種族はひどく無口で表情も少なく、そして、その髪を生き物のように自在に動かすということだけは知っていた。何らかの特殊能力はあるはずだった。だがそれが何であるかまでは、明らかにされていない。今になって調べようにも、その類の文献はそうそう見つからない。
だが、その存在は二百年位前に抹殺された筈だった。…少なくとも彼の知識の中では。
「…オリイ、君は…」
「まだ気付かないの? サンドリヨン。俺は君が彼と… 知ってる。だから、君に会ってみたかった。俺は、君に会えて嬉しかったけど」
黒い、長い髪。手に巻き付けたら、さぞ。
「君は…」
「もうじき、迎えに来る。だからその前に、俺達は、本物のエビータに会わなくちゃ」
そう言いながら、オリイは彼の服の前を合わせ、帯を締め直す。大きな瞳が、じっと彼をその間も見つめている。そしてその特徴のある光彩の、視線の向こうには。
「…来るのか?」
「来るんだよ。だって、俺は彼の目だもの。彼は俺の命の糧だもの。何処に居るのか何をしてるのか、そんなこと、よく知ってる」
彼は、一度大きく、手のひらで顔を覆い、ずるずるとそれを下ろした。ああ全く。利用するつもりが、利用されていたという訳か。
「でも」
オリイはきゅ、と結び目を作りながら付け足す。
「彼は、君のことはとても好きだよ」
「…そうだね」
「ただ、彼は、俺のなんだ」
Gは苦笑した。苦笑するしか、なかった。
そしてちょっとどいていて、とオリイは彼を横に避けた。
軽く首を上に向けると、再びオリイの髪は重力を無視する。するする、と四方八方に伸び、部屋中の白い薄い布を掴む。黒い蜘蛛の糸は、白い雲に絡み付いた。
そしてそれを一気に下にひきずり落とす。
あ、とGは思わず目の前に手をかざした。まぶしい。
一つ一つは大したことはない。が、四方八方に、そのライトはあった。小さな、だけど尋常ではない数が、それまで布で隠れていた壁に、取り付けられていた。
だがその光は、次第にその力を落としていった。彼はまぶしさに細めた目を、ゆっくりと開いていく。
観客が、そこに居た。
*
殺すなよ、と鷹は部下達に命じた。OK、と部下達は指を立てた。それが始まりだった。
何処に隠していたのだろう、とキムは彼等の背を追いながら思う。
内調局員達は、手に手に重火器を持っていた。それも何かの形を装って…という類ではない。その金属の鈍い輝きといい、重量感といい、露骨なほどに、それは武器であることを主張していた。小柄なニイなど、果たしてそれを扱いきれるのだろうか、という大きさだった。
だがどうも、それを撃つ気は彼等にはなさそうだった。
シェ・スーは銃尻で管理局員を弾き倒していたし、ジョーは銃は腰に差したまま、向かってくる相手の顔面を真っ向から殴り倒していた。ニイときたら、そのすばしっこい動きで、相手を転ばしては前に進んでいるのだからしょうもない。
キムはそんな彼等の後を追いながら、その頭目を見る。これはこれでまた、実に鮮やかに向かってくる管理局員を後にしていた。一体いつ何をやったのだろう、というくらい、その動きは鮮やかで、キムは自分の目を何度も疑った。
そしてニイが最初にチューブのコントロールに取りつき、仲間達に親指を立てて合図を送った。オートコントロールにしたのだろう、他の仲間と、キムが入ったことを確認すると、ニイ自身もチューブに乗り込んだ。
「さあて諸君、弾丸は節約しましたか」
鷹の問いかけに、はあい、と声がチューブの中に響いた。そういう訳かい、とキムは頭を抱える。そして自分の動作に気付くと、連絡員は苦笑する。これじゃまるで自分の盟友だ。
「ん? 何苦悩しているの? キム君」
にっこりと鷹はキムに笑いかける。
「…ま、どうやら君の友達の貞操の危機は過ぎ去った様だよ」
「便利なもんだね」
「便利ね」
ふふん、と鷹は口の端を上げる。悪趣味って言うんだよ、とシェ・スーはつぶやいたが、その場の誰もそれには反応しなかった。沈黙が、しばらくその空間を支配した。
「…ところでキム君、君ちょっと第三層で騒ぎ起こさなかったかい?」
…そしてその沈黙を破ったのは、やはりこの男だった。
「何鷹さん。そんな心当たりがあんたにはあるのかい?」
「いんや。心当たりがあるかどうか聞きたいのは俺の方なんだけど?」
「やったとしたら?」
「我々の予想は当たっていたことになる。よくもまあ、あれを見付けたもんだ」
ふん、とキムはシートに大きくもたれかかった。
「あいにく今回の俺の仕事なんでね。さすがの内調も、あれまではそうそう判らなかったと見えるな」
「あれはね」
鷹はやや前のめりになると、顎に手をやる。
「あれは他の反帝国組織とは違う。君等とも違う」
「そりゃあそうさ。同じにされては困る」
だろうね、と鷹はつぶやいた。
チューブが次第に減速を始める。
*
「…やっぱりあなたが居た」
と彼は右斜め前に立つ女性に向かって言った。ペリドットの瞳が、楽しそうな輝きを帯びる。
「気付いていたのか? サンド君。いや、MMのG君と呼ぼうか?」
先刻の白い服をつけたまま、ストロベリィブロンドが、彼の方を向く拍子に微かに揺れる。身体の線などまるでその服の上からでは判らないのに、そらした胸は、奇妙にその中の肉体を強調した。
ライトの当たらないその部屋は、どちらかというと薄暗かった。ライトの当たっている場所を際だたせよう、という狙いだろうか。だとしたらかなり悪趣味だ、とGは思う。
「最初から判っていましたか? キャサリン」
「そうではない。君があの方の目に止まったから、調べさせた。私はその意志に従っているだけだ」
そしてキャサリンはくっ、と顎を上げる。
「あなたの会いたがっていた方が、ここに居るのよ」
そして左斜め前から、少女の声がした。見なくても彼には判った。エルディだった。そして正面には。
「それにしても」
アメジストの瞳が、彼を真っ直ぐ見つめる。
「ここまで来れたのはあなたが初めてよね」
正面には、クローバアが椅子に座り、腕と脚を組んでいた。
「だけどあなたを呼んだ覚えはないけれど? 内調局員オリイ君?」
「呼ばれはしませんが俺は用がありました」
ふふ、とオリイの端的な返答にクローバアは口元を緩める。
「どんな用?」
「本物の、エビータの正体を。ひた隠しにしているから」
「なるほど、内調はそういう所に興味を持つのか」
くっ、とキャサリンは笑いながら肩をすくめる。
「我々の任務は正確な情報とその管理」
「確かにな」
「で、君は何なの?G君。あなたの望みは何?」
「…」
Gは黙り込む。何かが彼の中で、引っかかっていた。だがそれが何なのか、どうも彼自身、具体的な答えが出ない。そしてそれが出ない限り、この本物のエビータである筈の彼女には何も言えないような気がする。
…何だったろう…
彼は記憶をひっくり返す。この三人に会って以来の記憶を、急速なスピードで、再生し始めた。
はっ、とその時、オリイがびく、と肩を震わせた。横目にそれに気付いた彼は、気配を尖らせる。何かが居る。
そして次の瞬間、かすみ草が、飛び散った。ぱん、と音を立てて、壁一面に張り巡らせてある花瓶の一つが、粉々に砕けたのだ。白い壁紙に染みが広がった。
「何ごと!」
そう叫んだのは、クローバアだった。すっくとその場に立ち、歌姫の、よく通る声で叫んだ。オリイはその髪の一部を重力に逆らわせていた。何かが、近くに居る。銃を手にした者が。
だが彼の視線は、そこには無かった。そして。
「なるほど」
と彼はつぶやいた。
彼の目前では、キャサリンの白い服が一杯に広がって、エルディを腕の中に抱き込んでいた。…椅子から立ち上がるクローバアには見向きもせずに!
「君が、本物のエビータなんだな、エルディ」
オリイの髪がゆっくりと降りて行く。そこには危険は無い、と察知したかのように。そしてクローバアは、しまった、という表情でGの方を向いた。
「…かまをかけたわね、G君」
「いや、俺は何もしていない。今のが何なのか、俺は知らない。だけど、これで判った。本当のエビータには、まだ後宮は必要なかったんだな」
Gは視線を落とす。ゆっくりと、エルディは…本物の「エビータ」は、彼女の「姉」のキャサリンの腕をするりとぬける。
実際、彼は今の銃声には、心当たりが無かった。タイミングが良すぎるとは思ったが、オリイの警戒の仕方から言って、内調の誰かでもありえないだろう。
では誰が。
「そうよ」
抜けだしたエルディは、すっと彼の前に立ち、その顔を見上げる。そういえば、と彼は思う。この少女を真っ向から見たことはなかったのだ。
「薬を、使っていなかったのも、そのせいだね」
「使われてたまるか」
キャサリンはぱん、と服についたほこりを払いながら吐き出す様に言う。そんな「姉」に向かってクローバアは肩に手をかける。
「その時おかしい、とあなたは思っていた? あんな状態なら、はじめから薬を使っていれば、普通の少女ならそうしただろうけど」
「あれは、僕を舞台に引っ張り上げるための算段でしたか?」
「本当に、舞台に上がってくれるとまでは思わなかったわ」
少女は、頬を赤く染めた。その時の様子を思い出しているのだろうか。
「大抵は、そこまでせずとも金でかたをつける、とかもう少し器用な方法を用いるもんだ。君くらいなもんだ。わざわざ舞台に昇るなぞ。だがデモンストレーションとしては、確かに効果があったな」
「放っておいてくれ」
彼は吐き出す様に言う。多少以上の自己嫌悪と、それを楽しむ自分が両方その場に居たのだ。そしてそんな自分に関しては、やっぱり好きではないのだ。
「『入れ替わり』は一体、どういうことなんです?」
「…あれは、先代のエビータ、あたしの叔母が作ったプログラムを繰り返してるだけよ」
エルディは肩をすくめた。まだ頬の赤みは消えない。
「母さまの妹だった人よ。前の前の代の夫人だったの。前の前の代の、ようするにあたしにとっては叔父さまよね。あの方が亡くなったから、叔母が遺言によってそれを継いだのよ。その叔母がこの館のプログラムを組んだんだわ」
「プログラム」
「あなた達、ずいぶんと綺麗に洗われたでしょ」
少女はくす、と笑いを浮かべる。Gは眉を露骨に寄せた。
「叔母は綺麗なひとが好きだったわ。死ぬまで好きだったのよ。それが男だろうが女だろうが。気持ちは判るわ」
「判るのかい?」
「判るわ」
少女はにっ、と笑った。
「叔母はそのプログラムは、あくまで気に入ったひととそうするために作ったんだけど」
「あの女達はメカニクルだね?」
「そうよ。あたしが来る前から、ずっと前から居た、メカニクル達。そして」
エルディはキャサリンの腰に左手を回した。
「…私は、あの中の一人だった。だがこの方がいらしてからしばらくして、私の中で変化が起こった。私の中に意志が生まれたのだ。私はこの方を守る。それが私の意志だ」
ペリドットの瞳は真っ直ぐ彼の方を見た。彼は黙ってうなづく。やっぱりここでもこういうことはあったのか。あの小回りのきく組織のリーダーと、同じことを言う。
「彼女は? クローバアは人間なのだろう?」
「彼女は」
そしてエルディはクローバアの腰に右手を回す。
「クローバアは、あたしの生まれた時からのお守り役だわ。でも人間よ。大切なひとよ」
「母が、この方の乳母だったのよ。あたしは小さな頃からこの方にお仕えしている。そしてこれからもそうすることでしょう」
「それが君達の、使命?」
「ええ」
「そうだ」
二つの異なった高さの声が重なった。
「そしてG、あなたはあなたの使命を果たさなくてはならないのではなくて?」
「君は僕の使命とやらを知っているの?」
「ここに来る連中の使命という奴は一つしかないわ。決まっている。あなたが珍しいのよ、オリイ」
「ごめんなさい」
ぴょこん、と内調局員は素直に頭を下げる。
「…やだ、怒ってるんじゃないわよ。ここに来る色んな組織の目的なんてのは、もの凄い例外を除くと、一つしかないでしょ。皆エビータの力が欲しいのよ。あたしでなくてもいいの。エビータの、この世界における力が欲しいのよ」
エルディはそう言うと、両脇の二人の服をぎゅっと掴む。
「だけどあたしを、ただの小間使いのエルディのあたしを助けてくれたのは、あなただけだったのよ、G」
彼は無意識に胸に手をやる。鈍い痛みが、胸をよぎった。
「…だけど俺は、君の正体に気付いていたかもしれない」
「気付いていなかった、ってさっき言ったのはあなたでしょう?」
くす、と少女は笑う。
「叔母はここを後宮として使ったけど、あたしには必要ない。それはあたしが大きくなってからも同じよ。あたしが欲しいのは、そういうものじゃない」
そして、少女は真っ直ぐ彼を見た。
「だからあたしはあなたに力を貸すわ、G。反帝国組織MMではなく、あなた個人にね」
Gは首を横に振る。
「だけど俺は、MMの幹部だ。俺の居場所であるMMのためにその力を流用するだろう。それはそれで構わないというのかい?」
「それはあなたが決めることだわ。あたしは、あなたに力を貸す。あなたという個人にね。それはあなたがどんな者になったとしても、たとえ帝国全部、組織全部を敵に回したとしてもその約束は有効だわ」
彼は息を呑んだ。この少女は。
「別にあなたにこの先どうしろ、とは言わない。だけどこれだけは覚えておいて。ペロンのエビータは、あたしの代である以上、あなたに必ず力を貸す。あなたが何処に居て、何をしていたとしてもね」
そして少女は、両脇の二人を見上げて、うなづいた。キャサリンとクローバアはそれを見て、そっと彼女達の主人から手を離した。
「覚えておいてね」
少女はそう言って、ふっと身を翻し、奥の扉を開けた。それに少女の乳姉妹が続く。
そして扉に手をかけながら、キャサリンはアルトの声を投げた。
「逃げるがいい、G君」
「…逃げる?」
「この惑星を、我々は破壊する」
な、と彼は口を大きく開けた。
「この惑星はあの方には必要はない。そしてここから異変を感じて脱出もできないような者は、我々を探る資格も無いさ」
ペリドットの瞳が、楽しげに細められる。
「なあに、ほんの三時間さ」
キャサリンはそう言い捨てて、扉を閉めた。重い、金属の音だ、と彼は思った。そしてその音が響いた時、彼は、次にする事を思い出した。
「逃げなくては、オリイ!」
彼はここまで一緒にやってきた内調局員の姿を探した。だが一瞬見渡した限りでは、その姿は彼の視界に入ってこなかった。まさか、既に。
だがそれは間違いであることがすぐに判った。視線を下に下ろした時、黒い長い髪が床を這っているのを彼は見付けた。腰をぺたんと床について、オリイは脱力したように座り込んでいる。彼は急なこの変化に驚いて、思わず駆け寄った。そして手を伸ばす。首をがくんと前に倒し、髪が広がりつつあった。
「…おい!」
「触るな!」
背後で、聞き覚えのある声が、響いた。この声。自分が絶対に、聞き間違えることのない、この…
身体が、動かない。
だが、その声の主は、自分の前を通り過ぎ、真っ直ぐ、オリイの元に近づいた。そして声をかけ、手を伸ばす。
髪が、ゆっくりと、その手に巻き付いた。手だけではない。近づく鷹の身体に、首に、幾重にも、しかし決して強くなく、ゆるやかに巻き付いていく。鷹はその前に膝をつくと、目を伏せた。
あ、とGは背中がざわつくのを感じた。エネルギーの出入りがそこには感じられた。髪を伝って、旧友の身体の生気が、オリイの中に入っていく。それはほんの短い時間だったかもしれない。だが、ひどくGには長く感じられた。
「さて、このくらいあれば、帰れるな」
髪がゆっくりと解けていく。オリイは無言でうなづいた。
「…なんだよその格好!」
そしてもう一つの、聞き覚えのある声が耳に飛び込む。
「…任務は果たした!」
「判ってるよ。そこに同時進行で見ている奴が居たからね」
その鷹はオリイを助け起こすと、彼の方をその時やっと見た。
「やあ」
「…やあ」
Gは笑った。とりあえず、笑うことしかできなかった。