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第1話 休暇は終わりぬ

「…もっと」


 喉の奥から漏れる低い甘い声は、既に止めることを忘れていた。


「もっと… 何?」


 相手は容赦なく問いかける。伸ばされた指の先をかり、と噛む。彼のまぶたが、微かに震えた。聞こえるか聞こえない程度の声が、相手の耳にすうっと入り込む。

 それが合図、とばかりに、それまでゆるゆるとした動きでただ触れるばかりだったところを、おもむろに、強く吸った。

 彼は腕を伸ばして、胸の辺りにある相手の首にその腕を絡める。


 いつ殺されても、おかしくはないな。


 くっとあごを天井に向けながら、眠っているのか目覚めているのか曖昧な感覚の端で、彼はそんなことを考える。


 でもそれもまあ、いいか。


 伸ばした腕が、ふい、と相手のやや骨ばった身体をすり抜けた瞬間、空を切る。

 仰向けの、自分の身体が、夜の闇の中、そのまま頭から何処かに落ちていくような感じを覚える。

 それはあの時の感覚にも、よく似ていた。最初に「墜ちた」時。

 もう駄目だ、と思う反面、空を切り、ゆっくりと、空を目にしながら、終わりを夢見る瞬間。絶望と、快楽がまぜこぜになった、あの忘れがたい感覚。

 聞いてる? と相手は彼に問いかける。聞いてる、と彼はうわごとの様につぶやく。

 それから程なくして、自分の身体が少し浮き上がり、揺さぶられるのを感じる。

 息が次第に上がってくる。一体何処から湧いてくるのか、と思われる様な熱が、腰のあたりから背中を上がり、やがて頭の中までも冒し始める。

 彼はこの瞬間が、どうしようも無く好きな自分を知っている。

 何も考えられなくなって、ただ、自分の意志とは関係ない声だけが自分の中から漏れて。

 相手に、自分の身体を好きにされている、という、呆れる程無防備で、危険な、一瞬。次の瞬間、殺されているかもしれない、という感覚は、彼にとっては、どうしようもなく、心地よいものだった。

 果てて、気だるい身体を白い布の海に投げ出しても、相手はそれだけでは容赦しない。火照った皮膚の上に、冷たいものが滑らされる。

 それは甘さを感じる程の冷たい水の入ったコップであることもある。そんな水を固めた、透明な四角い氷のこともある。時には、その丸みをそのまま転がす丸い果物の時も。

 相手の手の中にある、たわわに実った果物は、この地では日々都度の食卓に並ぶのが当たり前の様に市場で売られているものだった。

 その鮮やかな、太陽の色、黄昏の色が、彼の目に飛び込む。湿気の多い、重さを感じる程の大気が、身体十にまとわりついているから、軽く触れられただけのその果実の冷たさが、彼の皮膚を一気に粟立たせる。

 相手はその黄昏色をした果物の一粒をつまみとると、彼のまだ赤みが強い唇に近づけた。彼は軽くそれを開く。押し込まれた粒は、軽く歯を当てるだけで弾けて、中の冷たい実を口の中に広げる。舌の脇に感じる酸味に、彼は目を細めた。

 もう、どのくらいこんな日々が続いているのだろう?

 彼はふと思う。高い気温と、青い空と白い壁と、果実の豊富な、この地。

 中立地帯。

 自分に関わる全てのものの目をかいくぐって、彼はこの地に居た。

 できれば、この時間がずっと続けばいい、と思っていた。言葉には出さない。だが彼の身体は正直だった。


「…眠ったのかい? G」


 眠ってない、と彼はつぶやく。

 眠っていない。俺は正気だ。

 そうつぶやいた、気が、した。

 だがそんな気がした、だけかもしれない。


   * 


「おはようございます」


 窓一杯の日差しと、女の声で目が覚めた。

 顔を黒い布で隠した女は、やはり身体の線をもたっぷりとした黒い服で隠したまま、銀色のワゴンを押して入ってくる。

 彼はのそり、と身体を起こす。女は部屋の真ん中にワゴンを置くと、軽く頭を下げ、手を額にかざすと、黙って部屋から出ていった。

 ワゴンの上には、ふたが大きく、底が広い、鮮やかな藍色のポットと、同じ色のジョッキ、それに果物と、薄焼きのパンが置かれていた。

 彼は気だるい身体をゆるゆると動かすと、寝台の上で足を伸ばし、大きく両腕を上に上げた。いつもの通りの、朝だった。この惑星に来てから、幾度となく、繰り返された。

 ハリ星系の、惑星ミントの朝は、長い。

 正確に言えば、一日が、長い。共通標準時における、36時間が一日であるこの惑星においては、太陽が空の真ん中に浮かぶまでの時間もまた長い。

 人々は、その長い朝を、ゆったりと楽しみ、それから活動に入る。

 気温が高いが、乾いた空気のこの地は、最初の移民団の中でも、近い気候の出身の人々が、生活基盤を形作ってきた。居住できる土地は、決してこのミント全体の中では多くは無い。赤道近い場所は、幾つか存在する大陸のいずれにおいても、砂漠地帯である。

 しかし極近い部分には、大陸は無い。大小の島が点在するだけである。広範囲に人間が快適に居住できるのは、アワイーブ大陸の、北東と南西の、海と川に面した広い平地だけであった。移民した人々も、やがてその二つの地域に都市を作り始めた。

 それが、現在のミントの二大勢力都市、アウヴァールとワッシャードの始まりである。

 とはいえ、さしあたり、彼の朝にはさほどそれは関係無い。

 寝台の脇に掛けてある、この地特有の、長い上着を取ると、彼は身体に引っかけた。ゆったりとしたこの服を彼は嫌いではない。

 ボタンはかけずに、彼はワゴンに近づくと、ポットの中身をジョッキに空ける。白い、とろりとした冷たい液体が、藍色の中に溜まっていく。口に含むと、それはひどく甘いのに、意外にもさっぱりとした口当たりである。身体の中が、その酸味で刺激され、目覚める。


「…何か、あった?」


 彼はそれを口にしながら、不意に言葉を飛ばした。


「別に、何も」


 問われた相手は、似たようなゆったりとした服をつけ、ニュースペイパーを手に、ゆっくりと彼の側まで歩み寄る。呑む? と彼は相手に訊ねた。ありがとう、と相手は答え、ペイパーと自分自身を床の上に置いた。

 広げたニュースペイパーを片立て膝で読む相手に、彼は自分と同じ色のジョッキに液体を注ぎ、手渡す。


「何か、あるじゃない」


 彼もまた、かがみ込むと、ニュースペイパーを反対側からのぞき込む。


「さしあたりは、無い、ということさ」

「ふうん。あんたの目にはそう見えるの、イェ・ホウ」

「君の目には、どう見える?」


 優しいが、試す様な口調に、彼は顔を上げる。


「別に、何も」


 彼はうっすらと微笑む。相手は、その表情に誘われる様に、彼の顎を軽く捕らえると、つやつやとしたその唇を軽く盗む。彼はそのまま、ニュースペイパーの上にぐっと身体を乗り出すと、相手の首に手を回す。膝の下には、ワッシャード中央議会での混乱があった。

 何も無い。少なくとも今の自分の目には。Gはそう思う。今は休暇なのだ。誰か、が自分の行方を探り当て、次の仕事を命じるまでは、自分はあくまで休暇なのだ、と彼は思う。

 その時の自分は、誰でもない。

 少なくとも、全星域最大の反帝都政府組織「MM」の幹部構成員のGでは―――彼はそう思いたかった。

 そして相手が、「反MM」組織である「Seraph」の幹部であることなど。そんなこと、考えたくない。

 だから彼はつぶやく、今は休暇なのだ。

 あの連絡員が、自分を見つけるまでは、あくまで、休暇なのだ。たとえこの、今自分を抱きしめている相手が、自分の正体を知っていようが、おそらくは、未来の自分に会っているのだとしても、それは今この瞬間の、自分には、どうでもいいことなのだ。

 その時間は、いつまで続くか判らない。だからその間だけは、足元で火がつこうが、そんなことはどうでもいいのだ。危険は承知だった。


「…でも、気になる?」


 唇を離し、彼はイェ・ホウと名乗る相手に訊ねた。それが本名である保証は無い。自分の本当の名は、知られているというのに、相手のそれは知らない。

 イェ・ホウはそうだね、とつぶやく。


「無粋かな?」

「さあ」


 彼は首を傾げる。膝の動きでよれたニュースペイパーに再び視線を落とすと、そこには、爆発の後の惨状が生々しい写真がある。


「これは、日常茶飯事かな。俺は聞いたことないけど」

「俺も、この地に関しては、君達の組織がどうこうした、という情報は掴んでいないよ」

「あんたが言うなら、そうなんだろう」

「君は聞いてないんだろう?」


 涼しげな視線が、彼に投げられる。彼は首を横に振る。


「俺が知っていることなんて、微々たるものだよ」

「そう?」

「そうさ」


 そうだろうか。彼は首を傾げる。そうかもしれない。そうでないかもしれない。どちらでもいい。考えるのが、億劫になっていた。


 この地で何があろうが、俺には関係ない。


 ただ今の、この怠惰な生活が、少しでも長引くことになればいい、と考えていた。

 それはそう長くは続かないことを、彼も知っていたのだ。

 イェ・ホウがこの地で彼と自分自身を住まわせていたのは、大陸の南西のワッシャードの勢力範囲内である、港湾都市アガシャイドである。

 ワッシャードの中心街ロゥベヤーガの午後のカッフェーでGを見つけたその男は、そのまま彼を陸用車の助手席に乗せて、アガシャイドの、海近くに建てられた、白い、四角い石造りの家へと連れてきた。

 出会った時には中華の店で料理人をしていた男と、この邸宅が、Gにとってはなかなか上手く頭の中で絡み合わなかったが、すぐにその違和感は抜けた。何処にどの様な格好をしていようが、この男の態度は基本的には変わらなかったのだ。

 伸ばされた腕は、あくまで彼を求めている。少し強引なまでなその腕は、ややもすれば、今現在ここに居る理由をあれこれと考えてしまう彼にとって、ひどく心地よいものだった。

 ただ、その時間は限られていることも、彼はよく知っていた。

 やがてやって来る。あの男が。


 そして、やってきた。


   *


 昼の海を眺めに行く時には、必ず頭から布をかぶっていかなくてはならない。強い日差しは、昼時間が終わるまで安心できるものではない。

 それは彼がこの惑星にやって来る時に仕入れた知識だった。来るのは初めてだった。

 一体俺は、どれだけの場所を移動してきたことだろう。

 彼は岩場に腰掛けて、ぼんやりと海を眺める。青い空を映したそれは、青より青い。波もなく、おだやかに、時々動いてゆくその音だけが耳に届く。

 頭からかぶった布は、彼の視界に影を落として、その強い光を和らげてくれる。それでも彼はやや目を細める。遠くを見つめる。これだけ静かで、誰もいない海の側で過ごすのは、初めてだった。

 生まれた惑星には、海は存在しなかった。見渡す限り、ごつごつとした岩場だった。土は硬く、植物は育ちにくく、寒暖の差は一日の中でも、季節の中でも激しく、およそ、人間の暮らす環境としては、最悪の部類だった。

 しかし今はその惑星は無い。無いと聞いている。郷愁を覚えるような惑星ではなかったが、ここに来てから、妙に彼には強く思い出されていた。

 そんな、住み心地の悪い惑星でも、彼らが生きていくには、そう不自由はなかった、という記憶もある。こうやって、あちこちの惑星を転々としてきた結果、あの惑星は住み難かったのではないか、と後になって思うだけである。そこに居るうちには、それなりに生きていた。だが今あの惑星に住み着け、と言われたら、正直言って、それができるかどうか、怪しい。

 耳の中に、ざ… と同じ高さの音が、延々響いている。繰り返されるその音で、何となく眠気がさしてきそうだった。

 無論彼は眠らなかった。

 眠る代わりに、ゆっくりと振り向いた。

 波の音の合間に、微かにその音が、彼の耳には飛び込んできた。

 足音を消すことなど、簡単だろう。


「やあ」


 明るい声が、彼の耳に飛び込む。やあ、と彼は返した。

 同じ様な、白い長い服に、布をかぶった男が、そこには立っていた。いつもなら、そんな風に立つのは、イェ・ホウだった。そしてそこで、またしばらく、ぼんやりと時間を過ごすのが常だった。

 しかし違う。イェ・ホウは、今は淡い金色に色を替えた髪を短くしている。前の黒髪も良かったけれど、それもいいな、とGは思っている。短いのが似合うのだ。

 少なくとも、こんな長い髪は、していない。


「久しぶり、じゃない。どぉ、元気だった?」


 栗色の、背中の半分まである髪を微かな風に揺らせ、連絡員は口元に軽い笑みを浮かべて、彼に問いかけた。


「不元気、と言ったら?」

「仕事は待ってはくれないんだけどね」


 それでいて、言うことの容赦無さは、変わりはしない。彼は苦笑する。


「何の仕事?」

「言ってしまえば、簡単なんだけど」

「言ってしまえよ」

「暗殺」


 確かに簡単だ、と彼は思う。


「ふうん。それで、誰を?」

「それも簡単」


 連絡員は短く答える。


「俺がさ、最近ずっと探してきた奴って、知ってるでしょ」


 ああ、と彼はうなづく。


「我らが組織の活動に一番厄介な天使サマ方の、元締めの様な奴だよね」


 何を今更、と彼は横に屈み込む盟友をちら、と見ながら思う。


「あれから俺、も少し追跡を続けたんだけどさ、そーんな奴って、全部で三人いるのね」

「三人?」

「そ。未だにどんな奴なのか、最初に見つけた一人以外、全然引っかかって来ないんだけどね」

「へえ」


 彼はつとめて平静に答える。


「お前にしては、キム、なかなか困ってる方じゃないの?」

「ええ全くですよ」


 キムと呼ばれた連絡員は、そう言いながら、落ちてくる長い髪を布をかきあげつつ耳に掛けた。


「だからね、とりあえず、判ってる奴を抹殺しちまおう、って算段なんだけど」

「それが、命令?」

「そう」


 あっさりとキムは答える。


「我らが盟主からの、お前さんへの御命令、だよ。『お前の接触しているSeraph幹部の一人を殺せ』」


 ふうっ、と彼の首すじに掛かっていた布が、風に動いた。視線を海から外すことなく、Gは連絡員に問いかける。


「嫌だ、と言ったら?」

「俺の役割って知ってる?」

「連絡員だろ?」

「そうだよ。でもそれは一つの顔。こっちは、お前に見せたことは無いよね」

「ふうん?」

「お前には、あまり見せたくはないけどね」

「俺だって、見たくないけどね」


 彼はそばの石を一つ拾って、海に投げた。


「本気だよ」


 キムは彼の顎を掴むと、くい、と自分の方を向かせた。


「お前が誰であろうが、もしお前が、Mを、我らが盟主を裏切る様なことがあったら、俺が、お前を殺すからね」


 それは本気だ、と彼は理解した。

 いや、判っていた。

 この連絡員にとって、何よりも大切なものは。

 Gは服のほこりを払いながら立ち上がると、つ、と顔を一瞬海の方へ向けた。残念だな、と彼は思う。結構この風景は好きだったから。


「仕事に、取りかかってくれよな」


 連絡員はいつになく、強い口調になる。彼は曖昧にああ、と返事をする。そう答えておいて、その反面、どうしようか、と考える。連絡員は、彼が誰の所に居るのか、知っている。知らないはずが無いのだ。

 だが連絡員が気付いているということは、逆に、イェ・ホウも連絡員の存在に気付いている、ということだ。彼はそれを期待した。



 床まで続く窓を開けて中に入ると、既にそこには誰の姿もなかった。

 Gはふっ、と視線を巡らす。誰かがほんの少し前まで、そこに居た気配はある。今朝羽織っていたシャツはベッドに掛けたままだし、銀色のワゴンの上には、昼前に取り替えたポットとジョッキがある。彼は近づくと、空いている方のジョッキを一つ取り、ポットの中にまだ残っている液体をその中に入れた。


 仕事、か。


 彼は口の中でつぶやく。確かに彼の立場としては、それは妥当な「仕事」だった。今までの行動の方が、おかしい。基本的に中立の姿勢をとっているあの内調局員とつきあうのとは意味が違うのだ。

 敵対勢力における、自分と同じくらいの立場の者。イェ・ホウはそういう存在だった。だけど出会った時にはそうではなかった。少なくとも、自分にとっては。そして向こうにしても、そんなことはどっちでも良かっただろう。…本当の正体と、未来の正体を知っていたとしても、だ。

 ごく、と彼はジョッキの中身を飲み干す。唇の端から、そのやや濃いめの白い液体が少しだけはみ出す。手の甲でぬぐうと、そのややべとつく様な感触が、いささかの記憶をかき立てる。


 さて。


 飲み干した彼は、一度目を閉じた。強くつぶり、大きく開く。


 休暇は終わりだ。


 とりあえずイェ・ホウがこの場から立ち去ってくれていたことに、安堵している自分に彼は気付いていた。この先自分がどう転ぶのかは、彼自身も判っていない。

 ただ、判っているのは、いつかは自分がどちらかに傾くであろうことであり、それがそう遠いことではない、ということだった。

 彼は白い長い服を脱ぎ捨て、ここにやってきた時に身につけていた服を取り出した。この地には、およそふさわしくない、黒いデニムのパンツと、上はやや緩やかなコットンのシャツ。もともと荷物は多くはなかった。ほとんど着の身着のままだった。必要なものは、上着の中に全て入れたはずだ。

 使い慣れた偽名のサンド・リヨン名義のパスポート・カードを服の内側に指で探る。と、中で紙の感触がした。するりとそれを引っぱり出すと、ちぎられたニュースペイパーの端に、最近見慣れた文字が、こうつづられていた。


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