夜時間マイナス8を時計が指した時、彼はベッドへと入った。
二週間以上居る訳だから、時差にはそれなりに馴染んでいる。もともとさほど眠らなくても大丈夫な体質ではあるが、休息をとれる時にはとっておきたい、と思うのだ。だから活動を始める時間から逆算して睡眠をとる。
それにしても。彼はなかなか身体が眠りにつかないことにやや苛立っていた。その気になれば、眠りに入るのはたやすいはずなのに。
熱いからだ、と彼は内心つぶやく。
この宿は、空調が良く効いている訳ではない。夜時間の真ん中を越えてもなかなか下がらない気温に、肌の火照りがなかなか取れない。あの白い服を脱いで、元々の服に替えたら、てきめんに紫外線が肌を焼いた。元々白い肌が、軽く赤くなっていて、熱を持っている。
せめて風が吹いていればな。
窓は開けていた。無防備なこと極まりない。
ただ彼に言わせれば、物取りだろうが強盗だろうが、来る時には窓でも壁でも壊して来るのだ。気休めの様に窓を閉じていたところで、大した変わりはないのだ、と。
それでも、静かな夜に、彼がうとうととし出した頃だった。
とん、と窓のところで音がした。
彼は薄目を開けて窓の方を見た。身体は動かさない。眠っているふりをする。
遠くの常夜灯だけが、この部屋に漂うぼんやりとした光源である。しかし侵入者のシルエットを映し出すには、それで充分だった。
ふわ、と何かが揺れた。カーテンか、と彼は一瞬思ったが、それはどうやら違うらしい。
足音を忍ばせ、侵入者は次第に彼の方へと近づいてくる。物取りだろうか。
そっと、侵入者は彼の脱ぎ捨てた服へと手を差し入れた―――その時だった。
彼はその手をぐっ、と掴んだ。途端、細い悲鳴の様な声が上がる。
掴んだ手首は、細い。
空いた方の手で、彼はスタンドライトを掴んでスイッチを入れた。急な光に、彼は目を細めた。あ、と女の声が上がった。
「君は…」
視界に赤が広がった。あの時窓から飛び出してきた女は、いきなりの光に目を伏せている。
「離して…」
Gは光量を少し落とし、ベッドサイドにライトを置いた。だがその手をすぐに離す気はなかった。
「どういうつもりだ? 場合によっては官憲に突き出すよ」
口調は穏やかに、しかし彼はきっぱりと断言する。女はその場にくたくた、と崩れ落ちる様に座り込んだ。
「ごめんなさい… あの、お金が必要だったの」
赤いヴェールが、はらりと床に落ちる。衣装のままだ。あの時のまま、何処かにずっと潜んででもいたのだろうか。
「それで、わざわざ観光客の宿を選んで?」
女――― イアサムの話ではマリエアリカという名だった――― は、黙ってうなづいた。
Gは落ちたヴェールを拾うと、彼女の手首を縛る。きつくなりすぎない様に、しかし身動きはとれないように。彼女は顔を軽くしかめる。Gはその時始めて彼女の顔をまじまじと見た。なるほど、美人だ。
やや濃いめの肌に、濃いくっきりとした眉、その下の黒い二重の大きな目。通った鼻筋、珊瑚色の唇。身体の線は、踊り子の衣装では露わになっている。やせすぎず太ってもいず、すんなりとした体つき。
彼にしてみれば、女性にしては起伏が少ないな、と思えたが、気になる程ではない。好きずきの問題だ。
なるほど何度も騒ぎを起こす割には、わざわざ連れ戻される訳だ。彼は納得する。
「…あいにく俺はそんなに親切じゃないから、このまま君を君の店まで今すぐ突きだしてもいいんだけど」
反射的に彼女は顔を上げると、大きく横に振った。
「あいにく俺もただの旅行者でね。無用な騒動に巻き込まれたくないの」
「ごめんなさいごめんなさい! …でもそこを、あの、許して…」
女が自分の弱さを武器にして泣き落としにかかるのを、彼は好まない。そんなものを何度も使うと価値が無くなってしまうのだ。
「理由によっては見逃してやってもいいよ」
少しばかり意地悪な気持ちになって、彼は甘い、低い声でそうつぶやく。マリエアリカははっ、と息を呑む。
「…理由を… 言わなくてはいけませんか?」
「何も無しで、自分のふところを狙おうとした奴を、女だからって言って見逃すと思ってるのかい? だったらずいぶんとなめてるんじゃないの?」
そうですね、と彼女は肩を落とす。
「けれど、言っても判っていただけるかどうか…」
おや、と彼は思う。
「言わなくちゃ、判るかどうかも判らないだろ?」
彼女は顔を上げた。
「…で、でも… 私がここで口にしたと知れたら… それはそれで…」
おや、と彼は思う。どうやら彼女は何かを恐れている様だ。
「何、もしかして、君は誰かに命令されて、そんなことをしたっていうの?」
「…え」
「今それ、君自分で白状したようなものじゃない」
あ、と彼女は手で口をふさいだ。
「…ああ… いけませんね。いつもそうなんです。大事なこと、隠そう隠そうと思うと、いつもこうで…」
「ごたくはいいから」
何となく彼は苛々としてきた。何でこう綺麗な子が、うだうだと話を長引かせるのだろう。外見と中身は関係ない、と思いつつ、彼はふとそんなことを考えてしまう。
「あの…実は私、反帝国組織の一員なのです」
「は」
さすがに彼もその言葉には面食らった。
もっとも、その組織が彼の属する「MM」ではないことは確かである。かの組織の構成員には、皮膚下にそれと認識するものが埋め込まれている。
「…あ、やっぱり信じてくださらない…」
「信じる信じないって君ね」
彼はだんだん呆れ始めていた。
「…でも、これで今日、あの、集まりの時に必要な資金を持っていかないと、私除名されるものですから…」
「だったらどうしてそんな所に居る訳?」
「それは」
彼女はそれまでうつむき加減だった顔を上げた。
「…あの、知り合いが、参加しているものですから」
「知り合い?」
「古い友達なんです。…彼女が居るから」
「それってね…」
さすがにGは頭を抱えた。そんな理由で参加してしまえるものなのか。
「…君ねえ、それがどれだけ危険なことか、知ってる?」
「知ってます」
あっさりと彼女は言う。
「でも、私にとって、彼女はとても大切だから、その彼女がそうしようというなら」
「君には自分ってものが無いのかい?」
「別に、要りません」
は。
彼はいい加減この女を窓から放り出したくなった。
しかし、言い方も態度も違うが、よく似た傾向の奴は知っている。一緒くたにするのは悪いが、あの連絡員も、盟主のためなら何でもするだろう。
そういう体質の者は、その現れ方や対象の差異はあれ、存在するのだ。いちいち目くじらを立てていては、身体がもたない。
「もういいよ、行って」
彼は疲れ切ったように窓を指した。
いいのですか、とマリエアリカは心底驚いた様な声で彼に問い返す。彼は手をひらひら、と振った。ありがとうございます、と彼女はその場から立ち上がった。一瞬後に、その気配が消える。
ふとその時彼は、彼女の手に縛ったヴェールをまだ解いていなかったことに気付いた。はっ、と彼は上着のポケットに慌てて手をやった。
やられた、と彼は苦笑する。
別に他の何も抜かれている訳ではないが、所持していた現金の半分が抜かれていた。
彼の足元には、綺麗に解かれた赤いヴェールが落ちていた。
それにしても。
彼は思う。
この地に、他の反帝国組織が居る、ということだろうか。女の言葉を丸ごと信じる訳ではない。しかし可能性は否定できない。
組織がこの地にシンパを作った歳のメリットというものを彼は考えてみる。辺境と言えば辺境であるし、独立性もある。そしてその独立性は、中央に対する脅威になるだろうか。
居住地区が多くない惑星から、他の住み易い気候の惑星を求める、というのは考えられなくはない。ただそれは、人口が必要以上にあふれている場所において言えることであり、確かに混み合った街は存在するが、そうでない場所も、この地には存在する。
それに、宗教的な問題。女性が顔を見せない、のも、結局はこの地の住民が最も多く持つ宗教のせいだった。もともとこの地とよく似た気候の場所で発生したと言われる一神教の宗教は住民にとって大きな存在である。
無論、植民する前の宗教とは、解釈も形も変化はしている。それでも一神教であるとか、時期によっては昼間の断食もあり得るとか、そんな特性は今でも存在する。
正直言って、帝都政府には面白くない存在だろう。いや、無視しておきたい存在かもしれない。
無理に寝た子を起こさない限り、特に問題は起こらないだろう、とも考えられる。
では寝た子を起こしたら?
確実に言えるのは、まともに帝都政府に反抗したところで、この星系には何の勝ち目も無い、ということである。反抗する理由も無い。
ではその反抗する理由もない惑星を、その活動に引きずり込んだ時に、起こした側にどの様なメリットが存在するのか。
彼はスタンドライトの光量を落とし、せっかく眠りかけたのに醒めてしまった頭を回転させる。
メリットが無いから、おそらく彼の所属する組織も、この地には手を出さないのだ。
…いや、あるかもしれない。
ふっとあの男の姿が浮かぶ。自分と同じ様に、この地へ休暇のためにやってきた男。イェ・ホウはおそらくここにはたびたびやってきていた。メリットの無さをいいことに、同業者のリゾート地となっている可能性はある。少なくとも、自分にとって、この地の空気は休暇そのものだった。
とすれば。
それ専門の刺客が、送り込まれている可能性もある訳だ。
そこまで考えて彼は苦笑する。考えてみれば、自分自身、つい朝まで側に居た相手を殺せ、と命令されているのだ。そして追っている。
追ったからと言って、そこで自分が命令通り、相手を殺せるとは限らない。殺せない可能性の方が高いことを、今の彼は気付いている。
だがそうすれば、今度は自分が追われる身となるだろう。
また眠れない夜になりそうだ、と彼は思う。
*
「あ、おはよう」
朝食を摂りに昨日の店に出向いたら、若い料理人は明るい声をかけた。
ひげのマスターは、カウンターに座った彼に、何を食べるか、と問いかける。彼は昨日の飲み物と、薄い平たく焼いたパンを頼む。
客は昼間程には多くはない。昨日は全部埋まっていたテーブルが、今は空席の方が多い。
「朝は皆自分の家で摂るものだからね」
とん、とロォズ色の杯に、昨日と同じ飲み物を入れて店主は彼の前に置く。へえ、とGは身体を半分横に向けながらうなづく。
「…ああ、そう言えば店主、この近くに、キャッシュカウンターはあるかな?」
「この近くには、どうかな。旅行者用の換金場所だったら、駅近くのラフダ銀行が取り扱っていると思うけど。足りなくなったのかい?」
「いや、昨夜物取りに入られてね」
やや苦々しそうな顔をしてGは言う。思い出せば思い出すほど、悪い気分になる。
結局自分はあの女にしてやられたのだ。まあ、下手に場慣れしているところを見せるのも別の意味で危険なのだろうが、あの過剰な程の演技に気付かなかったあたり、自分自身に腹が立つというものである。
「物取りとはまた物騒だね」
パンと、その上に乗せるちょっとしたシチュウに似たものをアルミのトレイに乗せて、イアサムも口を挟む。
「油断は大敵だよ。特にあんた、綺麗だから」
「だけど物取りって、女だったんだよ?」
「へえ。返り討ちにしてやれば良かったじゃないの」
「…気が抜けたんだよ」
彼はパンをちぎるとくるくると巻き、シチュウをつけ口へ運ぶ。よく煮込まれた濃い茶色のそれは、朝からやや濃いか、と思われる程だったが、不思議と口にしてみるとそうでもない。
薄いパンの、あるかないか程度の薄い塩味のせいかもしれない。ほんの少し塩味は、何も無いところより、小麦粉の甘味を引き出す。
そして昨日と同じ、濃い飲み物。寝不足の身体に、それらはいきなり大量のエネルギーを注ぎ込むかの様だった。
「駅前に、その銀行はあるんだね」
「そう。ロゥベヤーガ駅前に出る道は知ってるかい?」
「そのくらいだったら… 地図もあるし」
彼はごく控えめに、そう言った。Gはこの街に関しては、地図を頭の中に叩き込んである。組織の人間としての基本でもある。初めて行ったどんな場所でも、大まかな目印から、いざという時の逃走経路を把握しておかなくてはならない。身に付いた習性とは悲しいもので、ここでは休暇だ休暇だ、と考えていたとしても、どうしてもまずは現在位置と地図との関係を把握することから初めてしまう。
もっとも、カッフェー・アーイシャをいちいちこの店の人間に聞かなくてはならなかったように、個々の店まで把握している訳ではない。そんな細かいところまで記憶しておくと、逆にいざという時混乱するのは目に見えている。
それにしても。
彼は思う。
あのマーシャイ、というのは一体何のことなのだろう。
人の名前と取るのが一番てっとり早いのだが、そもそものカッフェー・アーイシャが現在は無い以上、その固有名詞につながる線は細くなる。
時間は無い。だが時間をずるずると延ばしたがっている自分も居る。
いずれにせよ、今しばらくこの地に留まる以上、盗まれた分の当座の金は補充しておかねばなるまい。無くてもある程度は動けるが、無いよりはあった方が自由度は高い。
「まあ今度は送ってやれないけど、気を付けてね」
にやにやと笑いながらイアサムは言った。その笑顔にやや口を歪めながらも、Gはちょいちょい、と彼を手招きする。なあに、と大きな目をぱっちりと見開きながら、この少年の様な青年は客に近づく。Gはその彼にさらにぐっと近づいた。一瞬相手が退くのを彼は見逃さなかった。軽く、発汗した時のにおいが漂う。
彼は極上の笑みを浮かべながら、囁く。
「…昨夜の物取りってさ、君が言ってた子なんだけど。マリエアリカ」
え? とイアサムは問い返す。目がほんの少し、細められる。
「そんなことを?」
「うん。君何か心当たりない?」
「いや… そうかそんなことを…でも」
でも? Gは目で問い返す。
「でも、そんなことすることができるなら、とっとと故郷へ帰ればいいのに。できないのかな」
と言うことは、無関係なのだろうか?
Gはしかし、それでもその笑みを崩すことはしなかった。