どこもそうだが、一度、火が付いた
早朝の親子トレーニングを終え、清々しい気分で朝食にありつこうとしたマロカは、目の前で火花を散らす2名を見取って嘆息をかろうじて呑みこんでいた。
こういう機微には敏いリエリーのほうは、「あたしが朝ごはん用意してくる」と、そそくさと退散していた。
後に残されたのは、オロオロと慌てるフレデリックとマロカのみで、すなわち自分がどうにかしなければならないということだった。
「……あー、ルー。そちらの方は?」
「「いけ好かない女よ」」
なぜか、敵愾心を色濃く込めた声が、同時にこちらへ向けられる。早速、地雷を踏み抜いた気がしないでもなかったが、もはや後に引くのは許されない。
マロカは、三角耳をカリカリとカギ爪で掻きつつ、ともかく両人の間に入ることにした。
「失礼。俺は、マロカ・セオーク。カシーゴのレンジャーだ。見たところ、ウチのルヴリエイトと意見が対立しているようだが……」
「ちょっとアナタは黙ってて。ワタシは、この
「ええ、望むところです。もっとも、あなたに法廷に上がる度胸があれば、ですが。――いやゃっ?!」
唐突に響き渡った悲鳴に、ついマロカもたじろいでしまった。反射的に周囲を見回し、自慢の特別な嗅覚を研ぎ澄ませる。が、
目を戻すと、ルヴリエイトと睨み合っていたスーツの女性が腰を抜かしたところで、こちらを見つめる目に浮かんだ恐怖の色を見て、マロカは合点がいった。
「ハハッ。驚かせてしまったようだ。よく言われるんだよ。話に割りこむな、誰かの心臓を止めるぞって」
「ス、スペクターがしゃべってる?! は、はやく通報を!」
(あの子がいなくてよかった)
持ちネタによる場の空気転換は見事、失敗に終わり、腰を抜かした女性は震える手で自身のカバンを探っていた。
特段、珍しくもない反応だった。
〈ユニフォーム〉を着用している時でさえ、こういった反応をされることがあるのだ。トレーニングウェアの今の姿なら、間違えられても仕方のないことだった。
「失礼でしょ、アナタ! 彼はレンジャーよ! 名乗ったのが聞こえなかったのかしら? それならチャッチャッと病院に行ったほうがいいわね。何なら、送って差し上げましょうか?」
「ルー、もうよせ。フレデリックが困っているじゃないか。いったい、何の騒ぎだ?」
収まるどころか、ますます混沌としてくる場。ここまでルヴリエイトが煽るからには、この女性が何か琴線に触れるようなことを言ったのだろう。そうだとしても、感情を逆撫でしてよい理由にはならない。
強い感情――驚き、怒り、哀しみは、火の粉のようなものだ。
小さなうちは、ありふれた感情で、誰もが持っている。
が、火の粉は煽ればエネルギーを増し、場合によって飛び火する。それは、反転感情として発現し、涙幽者という、恐ろしくも哀しい変化を喚び起こしかねない。
だからマロカは、普段なら出さないような強い語気でルヴリエイトを詰問した。
が、その返答が返る前に、絶えず身に付けている
『きょうはカシーゴを回って、ほかの救命活動みてくる』
「こいつはビックリだな。さては、通報があったな?」
『まだ。でもあったら、行く』
「リエリー。わかってるだろうが、俺たちは今日、非番だ。出動はしないからな?」
『わぁってるってば。けど、通りがかりの市民なら、仕方ないよね』
「駄目だ駄目だ! おまえは今、謹慎中なんだぞ! 勝手な行動はするんじゃない!」
『知ってる。あたしだってバカじゃないし、救命活動を辞めるつもりもない。だから、ほかのレンジャーを見てくるんだよ』
思いがけないリエリーの真剣な思いに、マロカはルヴリエイトと顔を見合わせてしまった。『ウィンクの顔』の絵文字を浮かべたルヴリエイトの言いたいことはわかる。あの子を信じて、だ。
『装備はぜんぶ、置いてくから。いいでしょ?』
「……遠くから見るだけだ。絶対に手出しするな。ネクサスの要請がない限り、俺たちは出ん。もし破ったら、俺が〈バッズ〉を置く。いいな?」
『それ、ずるくない?』
「返事はどうした、レジデント・リエリー」
『りょーかい、リーダー。〈CL〉のエンブレムに誓って』
「よし。昼までに帰ってくるんだ。トレーニングの続きをやるからな」
『オケオケ!』
「エリーちゃん! 朝ごはん!」
『ん、もう食べたから!』
口をモグモグさせた返事が返るなり、〈ハレーラ〉の後部ハッチから、小さい人影が風のように飛び出していた。
「……やれやれ」
「それでね、ロカ。この人、ほんと失礼なのよ……」
パートナーの愚痴を聞きながら、マロカは、自分の腹が鳴る音を宥めてやるしかなかった。