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万能のシャワー

「――あたしの馬鹿」


 踵で自室のドアを雑に閉めながら、そんな自嘲の言葉が口から漏れていた。

 目と鼻の先にある自分のベッドへ飛び込みたい衝動を抑え、左側にあるシャワールームへと足を向ける。

 作業着とグローブを、私服と分けて床へ脱ぎ捨て、髪を留めていたヘアバンドを手首へと移し替えた。片時も手放さないおかげで、貰ったときには鮮やかなグリーンだったバンドも、今では濃い緑へ色を変えている。

 そうして身軽になった体をシャワーカーテンの内側へ滑り込ませ、シャワーノブを捩じ回した。


「寒っ!?」


 途端、冷水が降り注いできて、思わず飛び跳ねてしまった。慌てて温水のノブを目いっぱい回すと、ようやく程よい温度の湯加減になった。


「ふー……」


 水滴が肌を伝うのに任せ、リエリーは大きく息を吐いていた。

 自然、思考が先刻のレイモンドとの会話に立ち戻っていた。

 レイモンドが冗談でなく、本気でそう言ったのはわかっていた。

 その外見からは想像も付かないが、自分の義祖父であり、養父にとっては親代わりのようなあの老技術者は、高齢の域に入って久しい。斃れる場面など、考えたこともないが、何があっても不思議でない年齢であることは間違いない。

 だから、レイモンドはあんなふうに言ったのだろう。

 自身に何かあったら、そのときはリエリーがエンの面倒を見てくれ、と。


「そういうとこは似なくていいのに」


 同じ台詞は、養父も頻繁に口にしていた。

 もっとも、マロカの場合、『ルーを頼むぞ』と言ってはそのルヴリエイト本人に叩かれていたが。

 本気であれ、冗談であれ、『自分が死んだら』という仮定の言葉は大嫌いだった。

 なぜかはわからない。が、そういう言葉を聞くたびに、腹の底からとめどない怒りが湧き上がってくる。


「……死ぬとか、勝手に言うな」


 閉じていた瞼を見開き、湯を降らせるシャワーヘッドを睨め付ける。水が目に入り、反射的に閉じようとする瞼を意志の力で捻じ伏せ、限界まで耐えてみせる。

 あっという間に視界が歪み、水と涙が一緒くたになって顔を流れていった。こうすれば、涙の理由を考えずに済む。


「痛っつ……」


 そんな意地も、数秒が限界で、ついに堪えきれずに下を向く。ぼやけた視界に、渦を巻きながら排水口へ流れていく水流が映った。


「しっかりしろ、あたし。やらなきゃいけないことがたくさんあるだろ。こんなとこで止まってる場合じゃあないんだ」


 徐々に思考がスッキリしてくると、自然に現状が整理されて頭に浮かんできていた。

 まずは、〈ハレーラ〉の整備を終えるのが先決だ。自分たち一家チームの基盤であるこの船が動かなければ、何もできはしない。

 非番の日だが、自分の予想が正しければ、応援要請が届くはずだった。

 枝部長ハリスは、威療士が負傷したくらいで警戒レベルを引き上げるような人間ではない。良くも悪くも、彼は現実主義者リアリストであると、長い付き合いからリエリーは知っている。となれば、アキラたちの負傷以上の何かが起きた、とみて間違いない。

 それが、カシーゴ中の威療士に向けて発した通達――涙幽者警戒レベルの引き上げに値する事態なら、養父マロカの言った通り、事は重大になる。

 考えたくはないが、今この瞬間にも、カシーゴで救命活動にあたっている威療士の誰かが、強力な涙幽者に遭遇していても不思議ではなかった。なおさら、備えておく必要がある。


「あとは、ブリーフィングの内容をロカから聞く。んでもって、いつも通りあしたから救命活動をやる。それから月末のライセンステスト、だ」


 やるべきことが明確になると、自然と元気になるものだ。

 シャワーを止め、「囁け、そよ風ウィスパーウィンド」と口にすることで個有能力ユニーカを使い、滴る水気を一掃する。

 そうして、短パンとキャミソールに袖を通したところで、ドアをノックする微音が耳に届いた。


「レイのノックじゃない。てことは」


 ドアを開けると、案の定、透き通った琥珀色の両目が見上げてきていた。


「……あの、師姉ねえさま。メンテナンスが終わったって、お師匠さまが言ってます。あと、その、とっとと帰れって」

「そ」


 レイモンドらしい挨拶だった。悔しいが、自分の考えていることなど、全てお見通しなのだろう。エンに伝言を頼むのは卑怯な気もしたが。

 そのエンは、伝えるべきことを伝えた後も周りを見回して、落ち着かない様子だった。


「ねえ。あたしはレンジャーだから、呼ばれたら行かなきゃいけない」

「はい……」

「けど、いまは呼ばれてない。あたしがいれば、あのロボ、すぐ完成するとおもうけど、いっしょにやる? あんた……エンがよかったらだけど」

「わあ! はい! 今もってきますね」


 頭が取れそうなほど強く頷くと、エンが踵を返す。

 その背中を眺める自分の頬が緩んでいることに、リエリーは気が付いていなかった。

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