俺は道場を視界に入れるや否や、他には目もくれず床に倒れる八咲に駆け寄った。
「おい、大丈夫か八咲ッ!」
「た、達桐、ぜぇ、それに、ひゅー……霧崎さん、まで」
呼吸が激しく乱れている。口から血の混じった涎が垂れていた。
どこか様子がおかしい。いや、それよりも、なぜ防具を付けていないのか。
喘鳴する八咲を見て、香織が眉をひそめた。
「八咲さん?」
「防具、袋。ぜ、ひゅー、……が、ある。取って、くれ」
言い終わる前に香織が防具袋に飛びついた。中で何かを見つけ、八咲の元へ持っていく。
香織が持ってきたのは巾着だった。受け取った八咲は中からカートリッジのついた小さな機械のようなものを取り出し、すぐさまそれを咥え、
カシュ、と空気の抜ける音が道場に響く。
「ぜぇ、はぁ──……はぁ、あ、ありが、とう」
すると、少しずつだが八咲の呼吸が落ち着き始めた。
どういうことなのか。八咲の体に何が起きているのか。俺の疑問に香織が答えを出した。
「喘息? 八咲さん、喘息なの?」
香織の問いはしばらく宙を漂っていたが、やがて深呼吸できるようになった八咲が、
「ああ、分かるの、か」
「うん。弟も昔に小児(しょうに)喘息(ぜんそく)で、似たような機械で吸入してたから」
隠し事のバレた子どもみたいな表情で、八咲が項垂れる。
「その通り、だよ。私は、幼い頃から、喘息を、患って、いる。昔に比べたら、だいぶマシにはなったんだが、激しい運動や、環境の変化で、発作、がな」
力なく苦笑する八咲。それを見た香織が泣きそうなほどに表情を歪めて、
「そんな体で、剣道してたの?」
ぎょっとした。コイツは喘息なんて爆弾を抱えながら、半年前俺を倒したのだ。おそらくその後の決勝戦は、喘息の発作が出たから辞退したのだ。
二人から視線を外してスコアボードを見る。八咲の名前から伸びる五本の線を確認し、コイツがこの剣道場で何をしていたのかを察した。
「八咲おまえ、一人でレギュラーの三年を四人倒したのか。しかも防具無しで」
「え」と香織が口を戦慄かせた。
「なんで、なんで喘息持ちなのにこんな無茶するのッ!」
血を吐くような痛切な叫びが響く。香織の感情を一身に受けた八咲は僅かに目を伏せ、
「許せなかった。剣道を理不尽な暴力に使って、他人を傷つけるヤツが、な」
剣道に対する敬意と矜持。コイツはそんなもののために、こんなになるまで戦ったのか。
「ムカつくけどさすがだ。ま、俺に勝ったんだからそれくらいしてくれなきゃ困るけどな」
いくら東宮が強かろうと、正面から八咲がやられているというのは考えにくい。というか考えたくない。
ならば予想できるのは、大将戦かその前で喘息の発作が起き、そこを東宮に容赦なく打ちのめされたということだろう。八咲の倒れていることとも辻褄が合う。
東宮の正面に立つ。脳が沸騰してどうにかなりそうだった。
「おい東宮。コイツは俺の獲物なんだよ。よくもやってくれたなクソ野郎」
「あ? 知るか。ソイツが売った喧嘩だ。取得本数や反則の累積がアリの勝ち抜き戦。大将戦は互いに防具無し。今俺が一本取った。まだ一本残ってんだよ。関係ねぇバカはすっこんでろ」
「一年の女子を五人がかりで甚振って楽しいかよ?」
「喧しい。そいつが吹っかけた喧嘩だって言ってんだろ」
「じゃあ次は俺と戦えよ。先鋒の八咲は戦えねぇ。なら次は大将同士で決着をつけようじゃねぇか。次鋒から副将までこっちの負けでいいからよ。勝ち抜き戦なら問題ねぇよな?」
「一対五だ、っつってんだろ。テメェはこの勝負に関係ねぇんだよ」
一秒、沈黙を挟む。
「はっ、りょーかいりょーかい。東宮テメェ、俺にビビッてんだもんな」
「あ?」と東宮が瞳孔を開き、どこまでもドスを利かせた声で威圧してくる。俺は知っている。こういうヤツは嘗めたセリフや見下されたりする態度が何より嫌いなんだ。
「俺が怖いんだろ? だから俺と戦うことを拒否すんだろ? 学校中に言いふらしてやるよ。剣道県ベスト8の大将は、雑魚と見下していた新入生を前に尻尾巻いて逃げたってな」
東宮の神経に糞を擦り付ける。俺が言われたら絶対に相手を殺している。
「──テメェ、死にてぇらしいな」
血管の切れる音が聞こえた。おそらくは東宮の頭から。狙い通り乗ってきた。
「言葉で脅したって意味ねぇよ。剣で語れや。抜けよ劣等。なんならサービスしてやるよ。八咲と交代でやるんだから、累積のルールを俺にも適用していいぜ。防具だって無しでいい」
「ちょ、剣誠くん何言ってんの!? 防具無しなんて危なすぎるよ!」
「黙ってろ香織」
止めようとする香織に視線を向けて黙らせる。
現状、八咲と東宮の戦いは八咲が一本を取られ、反則を一回したところで中断している。その続きということは、つまり俺は一本と反則一回の負債を抱えて東宮と戦うということだ。
体の痛みにこのハンデ。はっきり言って余裕はないが、このクソ野郎を完膚なきまでに叩きのめすには、これくらいやる必要があるだろう。
「この野郎、マジで殺してやるからな」
これ以上なく見下された東宮が顔面を真っ赤にして震えていた。滲み出る敵意、いや、殺意が肌に突き刺さる。理不尽と暴力を振りまくことしかしない、不細工な殺意。
改めて直面して思う。やっぱりコイツも偽物だ。本物を知る俺の劣化版でしかない。
「やれるもんならやってみろ。童貞じゃ俺には勝てねぇよ」