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第35話 この子の中の靄に触れたとき

 その日は習慣の筋トレの為に朝からジムに行っていた。

 お洒落な服を着こなしたいのならまず自分を磨く。

 それがあたしのポリシー。

 ちゃんと肉体もそれなりに鍛えておかなければきれいなボディーラインは作れないもの。

 最近の彼女の……鈴奈さんの日課になりつつあるメイクをしてからの散歩の為にもメイクの確認はしてあげたかったのだけれど大丈夫だと言うから出てきたけれどそれなりに気がかりではあった。

 そのせいなのか筋トレにもあまり集中出来なくて、それでもきっかりいつも通りの時間ジムで運動して、それから帰宅した。

 そんな家で待っていたのは、少しだけ前……出会った当初みたいな表情をした彼女だった。


「ちょっと、どうしたのよその顔……もしかしてあの男……!?」

 私が彼女のその表情を見た瞬間、一番に思い浮かんだのはストーカーのあの男のことだった。

 彼女は知らないし、言う気もないけどあの男は諦めていない。

 だから、あたしがいない間に何かあったのか、それが真っ先に心配だった。

「……あ、いえ、そういうわけではないんですけど」

 だけどそれは彼女の口から否定される。

「それなら何があったの? あたしには言えないこと?」

 だけどそれだけ言ったきり鈴奈さんは何か言おうとしなくて、つい、そう問いただしてしまう。

 出きるだけ声色と口調は優しくなるように努めはしたけど。

「言えないも何も、本当にとくにたいしたことじゃないんです、ただ、昔の知り合いに久しぶりに再開しただけで……」

「そうなの? それならどうしてそんな顔してるのよ……」

 昔の知り合いに再開しただけなのならば、何故そんなに暗い顔をしているのか、あたしには分からなかった。

 だって普段だったら散歩後すぐに落としてしまうメイクだってそのままだったから。

「自分でも分からないんです、最近めっきりそんなこともなかったのに、あの人も、変わって、大人になってたのに、それでもどうしても思い出す」

 鈴奈さんは何か考えるように斜め上に視線を向けながら普段はあまり見たことのないぽけっとした様子でそう語るから、本当に自分の中でも整理がついていないことなのだと悟るには充分だった。

「ココア淹れるわね、それ飲みながら少しだけお話しましょうか」

 あたしはそれだけ言うとマグカップとココアの粉を取り出して準備を始めた。


「落ち着いた?」

 あたしが淹れたココアをソファに座ってこくりと飲む鈴奈さんに隣で自分もココアを飲みながらそっと聞く。

「少しだけ……」

 そうすれば鈴奈さんはそう言いながら少しだけ頷く。

「そう……」

 確かにさっきよりは幾分かよくなったけれど、それでもいつも通りとはいかない様子で、あたしの返事も鈍くなる。

「……柊さん」

「なーに?」

 そんな中、鈴奈さんがふと、あたしの名前を呼んだ。

 話しやすいように、あえてあたしは優しくそう、聞き返す。

「私昔ある男の子に告白したんです」

「……告白」

 話を聞く準備は万全だった筈、それなのに、告白という単語が出た瞬間に、心臓のある辺りがジリっと音を立てた。

 それが、何なのかは、あたしには分からなかったけれど、少なくとも良いものではないことは確かだった。

「告白のためのメイクも服も頑張ってお洒落して、それで告白して、そしたらそういう格好とかする柄じゃないだろって笑われて……それから私は柊さんと出会うまでそういうのは全て封印して生きてきた」

 言いきると鈴奈さんはふにゃっとした顔で笑う。

 それは自虐とか、きっとそういうほうの顔で

「……そういうことが、あったのね」

 なんとかそれだけ返したけれど、年頃の女の子が好きな相手にそんなことを言われればどれだけ傷ついたか、それもこんなに女の子らしいことが大好きな女の子なのだから、それは計り知れない。

 ずっと自分なんか自分なんか、そう言ってきた彼女にあたしは散々自信を持てと言ってきたけれど、こうして彼女のなかに出来たしこりの確信に触れたのはおそらくこれが初めてのこと。

「最近は柊さんのおかげもあってやっと前を向き始めたのに、その人と再開しちゃって、この辺りに住んでるらしくて、逆に服飾についてること似合ってるって言ってきたんです、おかしいですよね、素直に喜べなくて、それでも連絡先交換しようって言われて断れなかったんです、もう、思い出したくないのに」

「……そんなの、着拒しちゃえばいいじゃない、無理して連絡取る必要もないもの」

 自虐的な笑顔のままそう淡々と語る彼女にあたしはそう言いきってしまう。

 そう、そんな相手なんてとっとと切ってしまえばいい。

 そうすれば鈴奈さんがこれ以上傷つく必要もない。

 鈴奈さんのことを思って言った筈の言葉なのに、何故かどこか独りよがりで、まるで自分の為に言っているようになってしまったことは分かるのに、その理由だけは分からなかった。

「……でも、彼、何か私に言おうとしてました、その内容が何となく分かるし、それできっと良いほうにも悪いほうにも転がる、それが分かってるから出来なくて、だから、ちゃんとけりをつけます、この感情に」

「……」

 だけど鈴奈さんはそれを断るとちゃんと自分のなかで決めた意思を、あたしのほうを向いて今度はちゃんとした笑顔でそう告げる。

 だけど、あたしは何も言えなかった。

 最初、ちゃんと会話するようになった頃はもっと弱々しくて、そのまま生きていくのはきっと大変なぐらいだと思っていたのに、ちゃんと迷った後でも自分で物事を決められる強さを持てたことは良いことの筈なのに、何でこんなに胸の中がざわめくのか、素直に喜んであげられないのか、あたしには、分からない。

「柊さん?」

 鈴奈さんは黙り込んだしまったあたしの名前を心配そうに読んでくるから。

「あ、いえ、何でもないのよ、そう……あなたがそう考えているなら、そうしてみたらいいと思うわ」

 慌ててあたしはいつもみたいにそう返す。

 今のあたしは、はたしていつもみたいなあたしを取り繕えていただろうか。

「……柊さんは、いつだって優しいですね、こうして言葉をかけてくれるだけで、私はいつだって少しだけ前を向ける」

 おそらくは取り繕えていたのだろう。

 鈴奈さんは嬉しそうにそう言ってから少しだけ笑うと、前を向いてココアの入ったマグカップに口をつけた。

「……そう、ね」

 あたしは何とか返事を返しながらマグカップを机に置いて、それからスマホを取り出すとある人物のSNSの画面を開いた。

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