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049話 ネフェル(?)の学生時代(05)

 一瞬、ネフェルは何が起こったのかわからず呆然とした。


 しばらくして頬にヒリヒリとした熱い痛みが刻まれていること。そして見上げた兄・カーコスが冷たい目で自分を見下ろしていることから、自分が兄に平手打ちを受け、倒れたことをようやく理解できた。


「お、お兄様……どうして……?」


 震える手でネフェルはカーコスにたれた頬に手をあてた。


「どうしてだと?」


 カーコスは実の妹を見る兄とは思えない冷淡な目でネフェルを見下ろし続けた。


「お前が俺にたれる理由は三つある。───まず一つは「新入生初登校一番乗り」を目指せと厳命したのに、こんな遅くにのこのこと登校してきたことだ」


 確かにネフェルはそう言いつけられていた。

 その為、ネフェルは3時間も前に学生寮を出たのだが、実はネフェルも本当は5時間前に学生寮を出るつもりでいた。

 しかし、昨日は学生寮への引っ越しで誰の手も借りられず、一人で荷物の片付けを行っていた為、疲れから寝坊してしまったのだ。

 他の新入生は学生寮に引っ越す際、領地からお付きの者を伴ってくるのだが、ネフェルの領地は地方にあって魔界学園から遠く、また領地は豊かではあるが弱小貴族家で、お付きの者などは雇っていなかった。

 その為、ネフェルは寮への入所手続きや荷物の運び入れ、そして荷解きと整理を一人でしなければならなかったのだ。


 そして遅くなった理由はもう一つ───バルバトスに絡まれてしまっていたこともあった。


 ネフェルはそれらのことを兄に訴え、言い訳をしようと思ったが、兄にはそうした言い訳は一切通じず、結果が全てだという事を思い出し、口をつぐんだ。


 そうしてネフェルは言葉は抑え込んだが、代わりに目がジワリと潤み、涙が零れんばかりに溢れてきた。


「二つ目はお前ごときがこの学園に入学したことだ」


 さらにカーコスは言葉を続けた。


「我がホーン家は爵位こそ伯爵だが所詮は辺境伯。その地位は王都中央の子爵、男爵にも劣る。魔界学園には地位のある貴族家の令息令嬢しか入学できない。地位の低い我がホーン家が入学するには莫大な寄付金を納めなくてはならない。俺一人が入学するだけでも我がホーン家の財政が傾くほどの寄付金を納めたのだ。だが有能な俺ならばそれほどの寄付金を納めてでも入学する意義があった。だが無能なお前にそんな意義は微塵もない」


 自分の一切を無価値と断罪され、ネフェルはちのめされたが、不本意な部分もあった。その為、反射的に口を開いてしまった。


「わ、私もお父様とお母様に魔界学園に入学したくないと再三申しました! でもお父様とお母様は「お前のように容姿もよく、気遣いに長けた娘なら同じ伯爵家とは言わずとも王都に近い中央の子爵か男爵家の令息に見初められるだろう」と仰り、全くお聞き入れくださらなかったんです! それに私もそうしたお相手と婚約できればそれこそ我がホーン家の為になると思い、それで───」


 ネフェルは必死に訴えたが、カーコスの返答は冷徹だった。


「お前を見初める令息など誰一人としているものかっ!!!」


 カーコスの一喝は落雷のようにネフェルを穿うがった。

 ネフェルはびくりと身体を強張らせ、胸の前で手を握ると、叱られる子供のように怯えた。


「お前は気が優しくて細かい事にも良く気付き、気遣いができる優しい娘だともてはやされているが俺から見ればそんなものはまやかしだ! お前は自分に自信がなく、人に嫌われるのが嫌で、絶えず相手や周囲の顔色を窺っているただの小心者だ!

 そんなお前を見初める令息などいるものか!

 だからお前は絶対に入学するなといったのだ。我が領地で薬草でも摘んで得意の回復薬ヒールポーションでも作っていれば良かったものを」


 カーコスは額に手を当ててかぶりを振ると、不快感をあらわにして大きな溜息をついた。


「そしてお前がたれる最後の理由だが、それは俺の事を兄と呼んだことだ。

 この学園では俺の事を兄と呼ぶなといったはずだ。俺は我がホーン家の為に日々、お前が想像もできないような努力をしている。その為、お前になど構っている暇はないと言ったはずだ。

 それにお前のような愚鈍な奴が妹だと知れたら俺の評判にどんな傷が付く事か……。

 だからあれ程きつく兄と呼ぶなと申しつけたのに、衆目集まるこのような場所で大声で俺を兄と呼ぶとは……。

 言語道断だ! 俺の言い付けを軽んじるにも程がある!」


 そういうとカーコスはネフェルの腕を掴んで乱暴に立ち上がらせた。


「立て、ネフェル。以上がお前が俺にたれる理由だ。異存はないな?」


 兄・カーコスの言い方は最初からネフェルに反論の余地を許さない決め付けだった。


 ネフェルは何か申し開きをしたいという思いが刹那的に浮かんだが、すぐにそれは兄に対しては通用しないという絶望に押しつぶされた。


 絶望は死に至る病───。その為、ネフェルは糸の切れた操り人形のように生気を失い、兄のすることに一切の反応を示さなくなってしまった。


 無抵抗なネフェルに対し、非情にもカーコスは腕を打ち下ろすべく手を頭上高く掲げた。


 兄の手が自らに打ち下ろされる未来がすぐ訪れる―――。


 しかしネフェルは無抵抗なままだった。

 それは絶対的な存在の兄に自らの全てを否定され、死を望むような心境に陥ったからだ。

 いっそ平手打ちではなく、剣で首を切り落としてくれればよいものを……。

 ネフェルはそう考えてしまうまでに思い詰めていた。


 命を投げ出すように無抵抗のまま、ネフェルはカーコスの一撃を待った───。


 ───だが、しかし、その瞬間はこなかった。


 振り上げたカーコスの手を別の誰かが鷲掴みにし、ネフェルを凶事から救ってくれたのだ。

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