……展示を全て見終えたのは、夕方の5時を過ぎた頃だった。
日は既に傾いていて、ビルとビルの間に挟まっていた。
黒影さんは展示会にある絵を全て観覧し、その上でイラストが描かれたクリアファイルを二枚と、ポスターカードを三枚買っていた。
「たくさん買ったねえ、黒影さん」
「う、うん。どれも限定品だったから、逃したくなくて」
余すことなく満喫した黒影さんは、展示会で買ったものを胸に抱いて、嬉しそうに頬を緩めていた。
「楽しめてよかったね、黒影さん」
「う、うん。楽しかった。白坂くんも、楽しめた……かな?」
「うん、僕も楽しかったよ!原画を観る機会なんて、今まで全然なかったからさ、刺激的だったよ」
「そ、そっか。白坂くんも楽しかったなら、よかった」
黒影さんはにっこりと、朗らかに眼を細めて笑った。
(……ああ、なんだか、可愛い人だな)
不意に僕は、そんなことを思った。
華やかで眩しい笑顔を持つ人じゃないけれど、穏やかで優しい……月明かりのような笑顔を持つ人だなって、そう感じた。
自分の妹と似てる人を可愛いと思うのは、なんだか胸の奥がそわそわしたけど、でもそう感じたのだから仕方ない。
黒影さんには、このままずっと……元気でいて欲しいなと、そんな風に願った。
「さて黒影さん、そろそろ帰ろうか」
「そうだね」
「どうする?バスにする?それとも電車?」
「ボクは、電車の方が早いかも。白坂くんは?」
「んー、僕はどっちでも同じくらいの距離だし、黒影さんと同じ電車に乗ろうかな」
「ボ、ボクと同じ?」
「うん!一緒に帰ろうよ」
「う、うん、分かった……」
そうして僕たちは電車のホームへと行き、家へ向かう車両に乗り込むことにした。
平日の夕方でラッシュの時間帯であったため、ホームは見渡す限りの人で埋め尽くされていた。
電車の乗降口の前には、長蛇の列が並んでいた。
「電車、混んでるね~」
「うん、そうだね」
「黒影さんって、電車よく使う?」
「あんまりないかも……。人混み苦手だし、それに……そんな遠出することもないし」
「あー、確かに僕も似たような感じかな」
僕たちは電車を待つ間、他愛ない雑談に花を咲かせていた。
「黒影さんは、今日の天野嘉孝さん……だっけ?あのイラストレーターさんはどうやって知ったの?やっぱり、ファイナル・ファンタジアから?」
「えっと、ボクの場合は、小説の挿絵からだったんだ。夢枕漠先生っていう小説家が好きで、その人が書いてる幻龍少年ギマイラって本の挿絵を、天野先生がされてたから、それで……」
「へー!小説か~!凄いね黒影さん、読書家だ!」
「い、いや、別にボクは……そんな対して読んでないよ。夏目漱岩先生のとか、そういう古典文学はまだまだ知らないし……」
淀むことなく、途切れることなく、僕たちの会話は続いていく。まるで随分昔から仲が良かったなと錯覚するほどに。
電車に乗り込んで、二人とも座席には座らず、つり革に捕まりながら立っていた。
その間も、やっぱり談笑は終わらなかった。なんだか凄く居心地がよくて、僕たちは延々話続けた。
(ああ、なんだか嬉しいな)
僕は、初めて黒影さんと出会った時のことを思い出していた。
当時は眼を合わせてくれることもなく、返事すらまともにしてもらえなかった。
でも今は、こうして和気あいあいと話せるし、しかも時々微笑んでくれたりする。
漫画の趣味も合うし、一緒に居て疲れない。これからも良い友だちになれそうだなと、そう思った。
……そんな時だった。
ふと、談笑している途中で、視線を下におろした瞬間があった。ちょうどそれは、黒影さんの背中から足元が見える範囲だった。
そこを見ようと思ったのは、別に深い意味はない。ただ単にすっと顔を向けた先が、たまたまそこだった。
「………………」
スマホが、あった。
にゅっと伸びた手がスマホを握っていて、黒影さんのスカートの中を、撮影していたのだ。
一瞬、何が起きているのか分からなかった。なんでこんなところにスマホが?という疑問が先に生じて、思考が止まってしまっていた。
驚きと戸惑いのせいで、状況を上手く認識できなくて、「あれ?怪奇現象?」とすら思ってしまった。
(ちょっと待って、これって……)
──盗撮?
その二文字が頭に浮かんだ途端に、僕の思考は一気に加速した。
スマホを持つ手の主を、直ぐ様見つけ出した。それは、黒影さんの左側に立つ……スーツを着た若い男の人だった。
「何してるんですか!!」
自分でも珍しいと思うほどに、僕は電車の中で怒鳴った。
そして、スマホを持つ手をぎゅっと掴んで、離さないようにした。
男はびっくりして、僕の手を引き離そうとしていた。
狭苦しい車内で、僕とその男との綱引きが展開された。
「し、白坂くん?」
黒影さんはきょとんとした顔で、僕のことを見つめていた。
「みなさん!この人!痴漢です!今僕の友だちを、盗撮してました!」
僕は大声を張り上げて、周りの人たちに助けを求めた。
「え?痴漢?」
「なになに?今どうなってんの?」
遠くの方で、見物人の呟く声がした。
「痴漢したのはあんたか!大人しくしなよ!」
周りにいた男の人たちが、一斉に盗撮魔に群がって、羽交い締めにした。
「ぐっ!ぐうっ……!」
さすがの盗撮魔も動けなくなって、持っていたスマホを床に落とした。僕はさっとそれを拾い上げて、画面を確認した。
そこには、間違いなく黒影さんのスカートの中が写り込んでいた。
それを見た瞬間、僕は久しぶりに、本気で怒っていた。閉じている口の中で、歯を思い切り食い縛っていた。
(黒影さんにこんな酷いことをするなんて……。許せない……)
「白坂、くん、どうしたの?何があったの?」
黒影さんが恐る恐る、僕へそう尋ねてきた。僕は怒りで昂った口調のまま、「盗撮だよ」と答えた。
「と、盗撮?」
「うん。君の……スカートの中を撮ってたんだ」
「え……?」
「でも、もう大丈夫。黒影さん、次の駅で降りようか」
僕は握り潰すくらいに力を込めながら、盗撮魔のスマホをポケットにしまった。