結局、〝黒の森〟の中での、俺たちの警戒は徒労に終わった。
こういう備えは徒労に終わってくれたほうがいい。良くないことというものは、「今日はいいか」と気を抜いた瞬間にやってくるものだし。
そんなわけで、街道を行く間も俺たちは周囲に目を配る。草原では春になり、青々とした葉を伸ばし始めた草が、渡る風に撫でられてそよいでいる。
空を見上げれば、雲一つない青空が広がっていて、良からぬことを企んでいる連中も今日ばかりはそれをやめ、のんびり過ごそうと考えているのではなかろうか、と思えるくらいにのどかな光景だ。
実際にはこの街道で野盗が思いのほか少ないのは、街の衛兵さんたちが結構な頻度で巡回をしているからなのだが、衛兵さんたちが活動しやすいのであれば、この陽気も良いことではあるのだろうな。
〝黒の森〟最強戦力に睨みを利かせられているからというわけでもないだろうが、街道でも何事もなく、俺たちは街の入り口へ辿り着く。
街の入り口では、一見すると暇そうに衛兵さんが街へ出入りする人を眺めている。
だが、少しでも心得があれば、決して暇を持て余しているわけではなく、その目が先ほどまでの俺たちと同じか、それ以上に鋭く、何一つ見逃すまいと細かく動いていることが分かるはずだ。
「どうも」
俺はいつもの通りに片手を上げて、衛兵さんに挨拶をする。ほんの僅かだけ、その目から緊張が消えた。
「あんたらか」
「何か起きたりしました?」
俺は衛兵さんに尋ねる。特筆するようなことが何も起きていないことは知っているが、世間話というやつだ。
「いや、特に変わったことはないな。いつもどおりさ」
「良かったです。お気をつけて」
「あんたらもな」
俺たちはにこやかに挨拶を交わすと、いつもの通りに街へ入っていった。
街の中は春が来たからだろうか、いつにも増して人が多く、賑わいを見せている。
もちろん、変わらないものもあって、例えば露店で店番をしている強面のオッさんはいつもの通りにルーシーに小さく手を振っていた。
今のルーシーはもうかなり狼然とした佇まいになりつつある。街行く人々の反応はというと、特段怖がるような素振りはない。
せいぜいが、竜車を見かけて珍しいなと荷車を見上げたら、狼と目が合って少しビックリする、くらいで、慌てて距離を取るとかのリアクションはなかった。
吠えたりはしていないので、少なくとも危険であるとは認識されていないようだ。
このまま、街に時折やってくるものとして馴染んでいってくれると良いんだけどな。
「こんにちは!」
カミロの店の裏手に着くと、丁稚さんが駆け寄ってきた。彼も幾分大人びてきたような気がしないでもない。
人間の1年ほどなので実際にはそこまでなのだろうだが、「男子三日遭わざれば刮目してみよ」という言葉も前の世界にはあったわけだし、いつか急に成長するんだろうな。
「こんにちは。今日も……」
いつものように娘達をお願いしようとして、俺は言葉を止めた。今日は話がそのまま進めば、いつもとは違うんだったな。
「今日から少しの間お願いするかもしれないから、その時はよろしくな」
丁稚さんは一瞬目を丸くしたが、すぐに満面の笑みを浮かべて、
「はい!」
そう力強く答えてくれるのだった。