「姫さん!姫さん!姫さ~ん」
真っ暗闇に義宗の大声が響き渡る。
――姫さ~ん!
――姫さ~ん!
川に頭をつけた時のような音が体を通り抜けていく。
「武丸様。あっちだ!」
駆け出そうとする義宗の首元を掴んだ。
「どうした?」
「あれはおじさんの声が跳ね返っているだけです」
「そうなのか?」
「考えなくても分かるでしょう。因子様なら、ご自分の事を姫さんとは呼ばれないはず!」
「そりゃあ、そうか!さすが、武丸様。頭が良いな」
なぜだろう。
義宗に褒められても全く嬉しくない。
「よわりました」
「武丸様の術で消し去れないのか?」
「出来たらやってます」
俺の力はそこまで強くないの!
むしろ不安要素の方が多いよ。
下手したら、俺の鬼力に感化されて術が強まる可能性もある。
「危ない!」
突然、視界が宙を舞った。
なっ!なんだ?
一瞬、義宗に腰を掴まれたような感覚があったが?
なぜか、見下げると義宗の頭のてっぺんが目に入る。
そして、義宗が対峙するのは瘴気を纏った巨大熊。
また熊?
京の都に?
いやいや、あれはどう見ても瘴気がらみだ。
どんだけ、熊が食べたかったんだよ。義宗!
さっきもありったけ食ったばかりだっていうのに!
「武丸様。ご無事で?」
「ああ…」
「この熊は任せろ!」
俺、もしかして、義宗に投げ飛ばされた?
おそらく、地上との距離は屋敷の天井ほどの高さだ。
細身とはいえ、まあまあ、体重あるとおもんだけどな…。
義宗の奴。俺の事、蹴鞠かなんかだと思ってる?
足蹴りはされてないが、なんとなく腑に落ちない。
何より、高いところは苦手なのだ。
早く、降りなくては…。
――ピリッ!
腕を動かすと静電気にあてられたような痛みが指先に走る。
霊力!
自身の体の周りに微量の霊力の膜が取り囲んでいた。
白い光沢を放つそれらに触れると内に流れる鬼力が弾けていく。
「おじさんの守りの力か」
悪疫を滅する神聖な気。おそらく、無意識に放ったのだろう。
通常の者ならば、神の御業として祭り上げる所だろうが、俺は別だ。
むしろ、窮地に立たされた状況だ。
こんな強い霊力の中に鬼力を持つ俺を放り込むとか、殺す気か!
少し触れただけで、悶絶する。
もし、頭でも突っ込んで見ろ。
すぐに天昇させられ、来世行だ。
指一本動かすのも危険…。
「さあ、熊よ。俺が今夜のおかずにしてやる」
地上では義宗がやはり、食欲に負けて術中に足を突っ込んでいる。
俺にどうしろというんだ?
――ガルッ!
「はああっ!」
突っ込む熊目掛けて、刀を振り下ろした。
――ギヤアアッ!
雄たけびを上げた熊は奇声をあげ、倒れる。
「さあ、頂こうぞ!」
熊は瘴気の塊へと姿を変えていく。
だが、義宗には相変わらず熊に見えているようで、腹と思われる部位にかみついた。
えっ!せめて、火であぶれよ。
――喰らえ!
――喰らえ!
どこからともなく声が響く。
義宗の腹が光っている?
――……力を!
――……力を!
「俺に喰わせろ!
「おい、おじさん。しっかり!」
身動きが出来ぬまま、目に色を失いかける義宗に呼びかけた。
――我に力を!
――我に力を!
これは義経公の声だ。
義宗が瘴気を食ったせいで、主導権を握り始めたか。
まずい。このままでは義宗の魂も食われかねない。
「おじさん!おじさん!」
「さあ、次は何を食わせてくれるんだ?」
聞こえていない!
義宗の問いに反応するように瘴気が集まってくる。
首を動かすと遠くで住蘭が笑っていた。
いや、あれは幻覚だ。
それでも、お前は無力だと告げられている気分にさせられる。
この瞬間にも義宗の霊力が俺を危険にさらしてもいる。
当の本人は瘴気の波に呑まれているというのに。
とんだ皮肉だな。
思わず苦笑いが漏れる中、暗闇の中を暴風にでもさらされているように振動した。
義経公の力にあてられて術の効力が高まり始めている。
もう、俺の鬼力がどうとか言ってはいられない。
霊力の膜は瘴気に飲まれ、少し弱くなってきている。
これなら、痛みだけで済むやも…。
考えている暇などない!
因子様も見つけねばならないのだから。
貞暁は覚悟を決め、霊力に手を突っ込んだ。
「うおおおっ!」
――バチバチバチッ!
身を砕くような痛みに耐えながら、義宗に焦点を合わせる。
地面に降りるぐらい簡単。
川に潜るように…。
ゆっくり、ゆっくり…。
「全部、食ってやる。食ってやる。俺が…すべてを!」
さらに大きな瘴気を口に運ぶ義宗の表情は黒ずんでいる。
「ああああっ!」
霊力の膜を消し去るように鬼力を絞りだした。
――バチンッ!
叫び声に幕は消え去った。
それと同時に義宗の体は急降下していく。
「義宗!お前が何者か思い出せ!俺を将軍にするんだろがぁ~!」
貞暁は義宗が持つ瘴気の塊を蹴り飛ばし、彼の腕を掴む。
息をきらせながら、地面の感覚を噛みしめた。
そして、背筋を伸ばす。
「言っておきますが、俺は殴り合いは嫌いです!」
義宗と少し距離を取り、構えの姿勢に入った。
鬼力は小さく…。
鬼言は薄く…。
指の速度は緩やかに…。
「はああっ!」
義宗の腹目掛けて、左手を押し出した。
「うっ!」
小さく悲鳴を上げた義宗は数歩後ろに引き下がった。
飛ばねえのかよ!
「痛っ!なんか、変なもんでも食ったかな?」
呑気な声をあげる義宗に思わず息をついた。
よかった。
義経公を押し込めたか。
「おじさん!大丈夫か?無事か?」
「おっ!おお~。よくわからんが、気分はいい!」
なんでだよ!
確かに肌艶はよくなっている。
さっきまで顔色、超悪かったのに!
「それより、将軍になると言ったか?」
「いいえ。まさか!」
「だか、この耳で確かに…」
「気のせいです。さあ、因子様を探しましょう」
「やっぱり、言ったよな。言った!」
「うるさいですよ。ほら、おじさんも因子様を呼び続けてください。この方法の言い出しっぺなんですから」
話題は変えるに限る。
「う~ん。おかしい。絶対、言った!」
それしか言わねえのかよ。
めんどくさっ!
こっちはお前のせいで寿命が縮みかけたんだぞ!