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第十五話 背負う名に宿る想い

 真っ暗闇の深海に揺蕩うような微睡みの中──幼い声が響く。


 ナイトの脳裏に映し出される映像は、妹アイナが生まれて間もなく。両親へあることを問い掛けている場面だ。



『父様、母様。どうして僕に〝騎士ナイト〟と名付けたのですか?』



 自分の名前に込められた意味。父と母は何を願って、この名を授けたのかを。



『あらあら、急にどうしたの?』



 アイナを腕に抱いた母が、微笑みながら首を傾げた。シルバーブロンドがさらりと揺れる。


 尋ねた理由は一つ。



『だって、僕には分不相応な名です。騎士ナイトは、己が剣でもって弱きを助け、守る存在……でしょう? 母様みたいに。……だけど、僕には母様のような剣の才能がありません。父様みたいに魔術を使うことだって……』


『ナイト……』



 母の横で優し気な面立ちの父が翡翠の瞳を見開き、眉を下げている。



(そう……俺は、幼い頃から驚くほど武芸の才がなかった)



 ほんの少し剣を振るのも他人の倍は力を要するし、魔術も同じ。体内に保有するマナ総量が絶望的に少なく、簡単な魔術を行使するのがやっとだった。



『僕は、ルーネント家の出来損ないです』



 両親を困らせたくはなかったが、言葉を飲み込むことができなかった。


 俯き、服の裾を握り締めていると、やんわりと頭を撫でられる。顔を上げれば母と父、二人の手が伸びていた。


 母は笑みを絶やさず、柔らかに告げる。



『貴方の名前には〝守護する者〟の意味を込めたわ。大事な人を守れるようにってね。でもね、その手段が、必ずしも武力によるものでなくともいいのよ』



 父も『そうさ』と頷き、膝を折ってナイトと視線を合わせた。



『ナイトは私たちとは違う力──〝知恵〟というを武器を持っている。卑下することはない。それに、大切なのは〝心〟だ』



 二人の声色から滲むのは、嘘偽りのない慈しみ。

 眩しい笑顔を浮かべて寄り添う両親の愛が、凍り付きそうなナイトの心を、いとも簡単にあたためた。



『誰を守りたいか、どう力をふるうのか。決めるのは貴方自身よ、ナイト』



 〝守る〟という概念が根付いたのはきっと、この時だろう。


 名は両親からの祝福。言葉の重みは、今も消えることなく胸の中にある。



(──だけど、憎しみに駆られて力を揮った俺は、多くの間違いを犯して来た)



 守るどころか壊して、奪って、数多の悲劇を生んだ。


 悔やんでも悔やみきれない過去の罪が、絡みついて解けぬ鎖となり、奈落の底へ誘おうとする。



(アイナ、俺はどうすればいい? どうすれば、君に償える……?)



 妹との突然の再会は、何もかもが予想の範疇を越えていた。出口のない迷路に迷い込んだ気分だ。


 ナイトは暗闇に沈みゆく中、もがいて手を伸ばす。と、その先から光が差し込んでくるのが見えて──。




 ハッと目が覚めた。


 瞬きを繰り返す。仄かに明るさがある薄暗い空間。眼前に広がるのは、ごつごつとした岩肌の、そう高くはない天井だ。



「ここは……?」



 魔道具マディアナをフェルドたちにお見舞いしたところまでは覚えているのだが、そのあとから一切の記憶がない。


 起き上がろうと体に力を込めると、全身に酷い痛みが走った。低い呻き声をもらしてしまう。



「……うっ、女神の遺物アーティファクトの、代償か」



 派手に使ったもんな、と苦笑いした。


 ひとまず起きるのは諦めて、視線を彷徨わせる。


 おそらく、洞窟の中なのだろう。ドーム状に岩壁が広がり、地面に散らばる小石の影がゆらりと揺れるさまが視界に入った。


 ——そして、少し離れたところに光源と、軍服の白い布切れが見える。


 その布の主は、壁にもたれるエレノアだった。



「エレノア……!」



 彼女の安否が気掛かりだ。ナイトは苦痛に顔を歪めながら歯を食いしばって、今度こそ上体を起こすことに成功する。


 幾度か呼吸を重ねて荒い息を落ち着かせていると、己へ衣服が掛けられていることに気が付いた。



(エレノアの軍服……)



 手に取って見れば、ほのかな温もりを感じさせる。


 ナイトは軋む体に鞭打って立ち上がり、エレノアの側へ寄った。


 ──静かに、肩を上下させている。眠っているようだ。薄着なせいで寒そうだが、無事なことに胸を撫で下ろす。


 ナイトは声をかけずに身体を屈めて、彼女の肩を包むように軍服をかけた。



(ここまで連れて来てくれたんだな。ありがとう)



 じんわりと胸があたたかくなるのを感じながら、そろりと壁際へ。移動しようとしたのだが——エレノアは気配を感じ取ったのか、微かな寝息を止めた。


 ゆるゆると瞼が開かれる。ぼんやりと視線を巡らせた彼女は、ナイトに気付くと紫黄水晶アメトリンの瞳を大きく見開いた。



「隊長……? 良かった……目を覚まされたのですね」



 エレノアに安堵の色が浮かび、ナイトも微笑みを返す。



「うん。目覚めたばかりでまだ少しふらついてるけど、大丈夫。エレノアこそ、怪我はない?」


「平気です。ここまで移動するのに体力を消耗したくらいで……。休めば大したことありません」



 だが、彼女の声はかすれ、表情にも疲労が色濃い。

 相当な無理を強いてしまったのだろう、とナイトは申し訳なさに眉を寄せた。



「俺を背負って来たんだろう? ごめんね、頑張ってくれてありがとう。軍服も助かったよ」



 エレノアがふるふると首を横に振る。



「礼には及びません。むしろ……私は、謝らないと。こんなことになったのは、私の独断が原因ですから……」


「それはお互い様ってことで。俺はエレノアを利用しようとしてたんだからね。それに、ここまで逃げて来られたのは君のお陰だ」


「隊長はいつもそうやって、私に甘いんですよ」



 エレノアは罰の悪い表情で上着に袖を通すと、岩壁を支えにしてそっと立ち上がった。


 だが、痺れたのかよろけるエレノアの肩を、ナイトは咄嗟に支えた。


 至近距離でパチリと目が合う。「大丈夫?」と尋ねると、彼女は慌てた様子で顔を赤くした。



「だ、大丈夫です。ちょっと、よろめいただけです」


「本当に? エレノアは無茶ばかりするから、信用ならないなぁ」



 くすり、と意地悪く笑いをもらす。エレノアは頬を赤らめたまま眉を吊り上げて「ほ、本当に何でもありませんから!」とナイトの腕から逃れていった。



「ならいいけど、どこか痛むなら言ってね。治癒の魔道具マディアナはまだ残してあるからさ」



 エレノアは頷き、軽く体を伸ばした後、壁を背にして再び腰を下ろした。


 ぬくもりを名残惜しく感じつつ、ナイトも一人分の間を空けて、隣へ座り込む。


 そうして、魔術のわずかな明かりに照らされるだけの洞窟内に、沈黙が流れた。



(……とりあえず、現状を正しく把握しておかないとね)



 ナイトは胸に忍ばせた女神の遺物アーティファクト、懐中時計でもあるそれを取り出した。


 祈る女神の翼が大樹を抱く意匠の描かれた蓋を開くと、秒針が時を刻む音が響く。


 示す時刻は日付が変わる前。

 砦を出てから、ことのほか時間が経っていた。



「エレノア、現在地はわかる?」



 問い掛けると「はい」とハッキリとした答えが返る。


 そこからエレノアは、ここに至るまでに辿った経路、おおよその時間を教えてくれた。



「──なるほど。現在地はグランツ砦の北東。ルクシア山脈の麓か。このまま北上して国境を越えればルゼマーレ公爵領プラカーシュだけど……」


「まだ大分距離がありますよね」



 ナイトは「そうだね」と相槌を打ち、天井を仰ぎながら思考を巡らす。



「今なら通信の魔道具リンクベルも繋がるかもしれない。けど、ここはまだ王国領だ。迂闊に連絡を取れば、敵に感知される可能性がある。エレノアもそれをわかっているから、みんなに連絡を取らなかったんだろう?」


「はい。せっかくの隠蔽魔術も無駄になってしまいますから」


「うん、冷静な判断だ。記章の追尾もさすがに効果範囲外だし、救援は期待できない。となると〝かくれんぼハイド アンド シーク〟で進むしかないかな」



 幸いなことに地理は頭に入っている。王国軍の拠点を避けながら進むのは存外に難しくない。



「懸念があるとすれば──アイナのことだ」



 妹はかなり切れ者な印象を受けた。二手、三手先を見据えて行動しているはず。


 加えて、ナイトに対して並々ならぬ憎悪と、怒りの感情を抱いている。



「巻いたつもりではいますが、追撃してくるでしょうか?」


「このまま見逃してくれるとは、思えないな」



 ナイトはぐっと拳を握りしめて、唇を引き結ぶ。


 実の妹に憎まれている、という事実が胸を締め付けた。現実から目を逸らしても事態は解決しないが、アイナとどう向き合えばいいのか……何度考えても、答えが出ない。


 沈黙が落ち、呼吸の音だけが鮮明に聞こえる中──。



「隊長。お二人の過去に、何があったんですか?」



 迷いを含んだエレノアの声が響いた。ナイトの顔をじっと見つめる瞳は、戸惑いに揺れている。


 ナイトは驚いた。彼女が自分に興味を示し、踏み込もうとするなんて。砦で庇ってくれた時にも感じたが、明らかな変化だ。



「俺の過去、か……。興味を持ってくれるのは嬉しいけど、聞いて気分のいいものではないと思うし、軽蔑するかもよ?」



 ナイトは自嘲めいて笑った後、笑みを消して眼光を鋭める。



「それでも、聞きたい?」



 問い掛けに一瞬、エレノアが怯んだ。が、すぐに深呼吸をして、開かれた瞳には凛とした輝きが宿っていた。



「興味本位だけで、聞いているのではありません。……誰かに話すことで、心が軽くなることもあると、知ったんです。それに、隊長が私の味方だと言うのなら、私も隊長の味方です」



 暗闇を切り裂くような、強い意志の滲む声が鼓膜を震わす。

 彼女はなんて真っ直ぐで美しいのだろう、と感嘆してしまう。


 こんな真心のこもった言葉を拒めるわけがない。



「……そうだね。俺だけエレノアの過去を知ってるのもフェアじゃないし、そう言ってくれる君の言葉に甘えようかな」



 ナイトは力なく笑って視線を落とした。


 とは言え、すぐには言葉が出て来ない。


 心の奥底に沈めた、深い闇──己の罪と咎を、何からどう話すべきか。


 ナイトは瞼を伏せて、しばし黙考する。


 エレノアの優しく見守る視線を受けつつ、どこからともなく反響する水の滴る音と、風のさざめきを聞きながら、紡ぐ言葉を模索した。

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