真っ暗闇の深海に揺蕩うような微睡みの中──幼い声が響く。
ナイトの脳裏に映し出される映像は、妹アイナが生まれて間もなく。両親へあることを問い掛けている場面だ。
『父様、母様。どうして僕に〝
自分の名前に込められた意味。父と母は何を願って、この名を授けたのかを。
『あらあら、急にどうしたの?』
アイナを腕に抱いた母が、微笑みながら首を傾げた。シルバーブロンドがさらりと揺れる。
尋ねた理由は一つ。
『だって、僕には分不相応な名です。
『ナイト……』
母の横で優し気な面立ちの父が翡翠の瞳を見開き、眉を下げている。
(そう……俺は、幼い頃から驚くほど武芸の才がなかった)
ほんの少し剣を振るのも他人の倍は力を要するし、魔術も同じ。体内に保有するマナ総量が絶望的に少なく、簡単な魔術を行使するのがやっとだった。
『僕は、ルーネント家の出来損ないです』
両親を困らせたくはなかったが、言葉を飲み込むことができなかった。
俯き、服の裾を握り締めていると、やんわりと頭を撫でられる。顔を上げれば母と父、二人の手が伸びていた。
母は笑みを絶やさず、柔らかに告げる。
『貴方の名前には〝守護する者〟の意味を込めたわ。大事な人を守れるようにってね。でもね、その手段が、必ずしも武力によるものでなくともいいのよ』
父も『そうさ』と頷き、膝を折ってナイトと視線を合わせた。
『ナイトは私たちとは違う力──〝知恵〟というを武器を持っている。卑下することはない。それに、大切なのは〝心〟だ』
二人の声色から滲むのは、嘘偽りのない慈しみ。
眩しい笑顔を浮かべて寄り添う両親の愛が、凍り付きそうなナイトの心を、いとも簡単にあたためた。
『誰を守りたいか、どう力を
〝守る〟という概念が根付いたのはきっと、この時だろう。
名は両親からの祝福。言葉の重みは、今も消えることなく胸の中にある。
(──だけど、憎しみに駆られて力を揮った俺は、多くの間違いを犯して来た)
守るどころか壊して、奪って、数多の悲劇を生んだ。
悔やんでも悔やみきれない過去の罪が、絡みついて解けぬ鎖となり、奈落の底へ誘おうとする。
(アイナ、俺はどうすればいい? どうすれば、君に償える……?)
妹との突然の再会は、何もかもが予想の範疇を越えていた。出口のない迷路に迷い込んだ気分だ。
ナイトは暗闇に沈みゆく中、もがいて手を伸ばす。と、その先から光が差し込んでくるのが見えて──。
ハッと目が覚めた。
瞬きを繰り返す。仄かに明るさがある薄暗い空間。眼前に広がるのは、ごつごつとした岩肌の、そう高くはない天井だ。
「ここは……?」
起き上がろうと体に力を込めると、全身に酷い痛みが走った。低い呻き声をもらしてしまう。
「……うっ、
派手に使ったもんな、と苦笑いした。
ひとまず起きるのは諦めて、視線を彷徨わせる。
おそらく、洞窟の中なのだろう。ドーム状に岩壁が広がり、地面に散らばる小石の影がゆらりと揺れるさまが視界に入った。
——そして、少し離れたところに光源と、軍服の白い布切れが見える。
その布の主は、壁にもたれるエレノアだった。
「エレノア……!」
彼女の安否が気掛かりだ。ナイトは苦痛に顔を歪めながら歯を食いしばって、今度こそ上体を起こすことに成功する。
幾度か呼吸を重ねて荒い息を落ち着かせていると、己へ衣服が掛けられていることに気が付いた。
(エレノアの軍服……)
手に取って見れば、ほのかな温もりを感じさせる。
ナイトは軋む体に鞭打って立ち上がり、エレノアの側へ寄った。
──静かに、肩を上下させている。眠っているようだ。薄着なせいで寒そうだが、無事なことに胸を撫で下ろす。
ナイトは声をかけずに身体を屈めて、彼女の肩を包むように軍服をかけた。
(ここまで連れて来てくれたんだな。ありがとう)
じんわりと胸があたたかくなるのを感じながら、そろりと壁際へ。移動しようとしたのだが——エレノアは気配を感じ取ったのか、微かな寝息を止めた。
ゆるゆると瞼が開かれる。ぼんやりと視線を巡らせた彼女は、ナイトに気付くと
「隊長……? 良かった……目を覚まされたのですね」
エレノアに安堵の色が浮かび、ナイトも微笑みを返す。
「うん。目覚めたばかりでまだ少しふらついてるけど、大丈夫。エレノアこそ、怪我はない?」
「平気です。ここまで移動するのに体力を消耗したくらいで……。休めば大したことありません」
だが、彼女の声はかすれ、表情にも疲労が色濃い。
相当な無理を強いてしまったのだろう、とナイトは申し訳なさに眉を寄せた。
「俺を背負って来たんだろう? ごめんね、頑張ってくれてありがとう。軍服も助かったよ」
エレノアがふるふると首を横に振る。
「礼には及びません。むしろ……私は、謝らないと。こんなことになったのは、私の独断が原因ですから……」
「それはお互い様ってことで。俺はエレノアを利用しようとしてたんだからね。それに、ここまで逃げて来られたのは君のお陰だ」
「隊長はいつもそうやって、私に甘いんですよ」
エレノアは罰の悪い表情で上着に袖を通すと、岩壁を支えにしてそっと立ち上がった。
だが、痺れたのかよろけるエレノアの肩を、ナイトは咄嗟に支えた。
至近距離でパチリと目が合う。「大丈夫?」と尋ねると、彼女は慌てた様子で顔を赤くした。
「だ、大丈夫です。ちょっと、よろめいただけです」
「本当に? エレノアは無茶ばかりするから、信用ならないなぁ」
くすり、と意地悪く笑いをもらす。エレノアは頬を赤らめたまま眉を吊り上げて「ほ、本当に何でもありませんから!」とナイトの腕から逃れていった。
「ならいいけど、どこか痛むなら言ってね。治癒の
エレノアは頷き、軽く体を伸ばした後、壁を背にして再び腰を下ろした。
ぬくもりを名残惜しく感じつつ、ナイトも一人分の間を空けて、隣へ座り込む。
そうして、魔術のわずかな明かりに照らされるだけの洞窟内に、沈黙が流れた。
(……とりあえず、現状を正しく把握しておかないとね)
ナイトは胸に忍ばせた
祈る女神の翼が大樹を抱く意匠の描かれた蓋を開くと、秒針が時を刻む音が響く。
示す時刻は日付が変わる前。
砦を出てから、ことのほか時間が経っていた。
「エレノア、現在地はわかる?」
問い掛けると「はい」とハッキリとした答えが返る。
そこからエレノアは、ここに至るまでに辿った経路、おおよその時間を教えてくれた。
「──なるほど。現在地はグランツ砦の北東。ルクシア山脈の麓か。このまま北上して国境を越えればルゼマーレ公爵領プラカーシュだけど……」
「まだ大分距離がありますよね」
ナイトは「そうだね」と相槌を打ち、天井を仰ぎながら思考を巡らす。
「今なら
「はい。せっかくの隠蔽魔術も無駄になってしまいますから」
「うん、冷静な判断だ。記章の追尾もさすがに効果範囲外だし、救援は期待できない。となると〝
幸いなことに地理は頭に入っている。王国軍の拠点を避けながら進むのは存外に難しくない。
「懸念があるとすれば──アイナのことだ」
妹はかなり切れ者な印象を受けた。二手、三手先を見据えて行動しているはず。
加えて、ナイトに対して並々ならぬ憎悪と、怒りの感情を抱いている。
「巻いたつもりではいますが、追撃してくるでしょうか?」
「このまま見逃してくれるとは、思えないな」
ナイトはぐっと拳を握りしめて、唇を引き結ぶ。
実の妹に憎まれている、という事実が胸を締め付けた。現実から目を逸らしても事態は解決しないが、アイナとどう向き合えばいいのか……何度考えても、答えが出ない。
沈黙が落ち、呼吸の音だけが鮮明に聞こえる中──。
「隊長。お二人の過去に、何があったんですか?」
迷いを含んだエレノアの声が響いた。ナイトの顔をじっと見つめる瞳は、戸惑いに揺れている。
ナイトは驚いた。彼女が自分に興味を示し、踏み込もうとするなんて。砦で庇ってくれた時にも感じたが、明らかな変化だ。
「俺の過去、か……。興味を持ってくれるのは嬉しいけど、聞いて気分のいいものではないと思うし、軽蔑するかもよ?」
ナイトは自嘲めいて笑った後、笑みを消して眼光を鋭める。
「それでも、聞きたい?」
問い掛けに一瞬、エレノアが怯んだ。が、すぐに深呼吸をして、開かれた瞳には凛とした輝きが宿っていた。
「興味本位だけで、聞いているのではありません。……誰かに話すことで、心が軽くなることもあると、知ったんです。それに、隊長が私の味方だと言うのなら、私も隊長の味方です」
暗闇を切り裂くような、強い意志の滲む声が鼓膜を震わす。
彼女はなんて真っ直ぐで美しいのだろう、と感嘆してしまう。
こんな真心のこもった言葉を拒めるわけがない。
「……そうだね。俺だけエレノアの過去を知ってるのもフェアじゃないし、そう言ってくれる君の言葉に甘えようかな」
ナイトは力なく笑って視線を落とした。
とは言え、すぐには言葉が出て来ない。
心の奥底に沈めた、深い闇──己の罪と咎を、何からどう話すべきか。
ナイトは瞼を伏せて、しばし黙考する。
エレノアの優しく見守る視線を受けつつ、どこからともなく反響する水の滴る音と、風のさざめきを聞きながら、紡ぐ言葉を模索した。