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第27話 請う

『おはようございます、クラリス嬢。昨日は長い時間お付き合いさせてしまいましたがお疲れではありませんか』

「キース様、おはようございます。いいえ、こちらこそサロンを紹介してくださってありがとうございました。屋台も、とても楽しかったです」

 一緒にサロンへドレスを選びに行った次の日の朝、クラリスが調合室へ入るとすぐにキースから〝ベル〟が送られてきた。クラリスはほんのりと頬を染めながら返事をする。

 昨日のマダム・ローズリーのサロンから、まるでデートのような屋台巡りをしたことを思い出すとつい意識してしまう。

 辛いものが苦手だと恥ずかしがって耳を赤くしたかと思うと、すぐにクラリスの手からドーナツを食べて唇を舐める色っぽい仕草をした。

 そんなキースの新たな面を見せられたクラリスには、今彼に会えばドキドキしすぎて挙動不審になるという変な自信だけはある。

 だからキース本人ではなく彼の〝狼〟が朝の挨拶に来てくれたことにホッとした。

(これならばいつも通りにお話ができるし、少しくらい顔が赤くなってもキース様にはわからないわ)

 動物型とはいえ〝ベル〟が声だけしか伝わらなくてよかった。そう思いながらクラリスはスカートの裾を掴んでしゃがみ、尻尾を振る〝狼〟に向かい合う。

(……あら? でもなんだか姿が大きくなっているような……)

 最初は手のひらの上に乗るくらいの大きさだった〝狼〟が、よく見ればクラリスの膝下ほどの大きさになっている。おかしいな、と思いつつもキースからの言葉に気を取られてしまった。

『それならばよかったです。ああ、今朝は雲の多い日和になりそうですが調合室の気温は適温でしょうか?』

「たしかに今日は少し肌寒いようですが、こちらは大丈夫です。キース様こそ外出されるようでしたら体調にはお気をつけください」

 朝の挨拶からたわいのない話へと続く会話。彼の細やかな心遣いが嬉しく、クラリスの頬は自然と緩む。

 そのまま魔法薬の調合のための準備をしつつ、キースの少し低めの落ち着いた声に返事をしていく。クラリスにとっては思いもよらずとても楽しい朝の準備時間になった。

 ——しかしそれもなかなか消えることのないキースの〝狼〟の様子に、段々と落ち着かない気持ちになってくる。

(どうしましょう……こんなに長い時間。いいのかしら?)

 会話用の魔法道具である〝ベル〟は意外と魔力を必要とする道具であり会話が終われば送者はすみやかに切るのが普通だ。魔力が少ない者なら通話を保持しようとしても切れてしまうこともあるらしい。実際、クラリスが〝ベル〟を起動させた時も自分の意志ではなく、魔力が切れたせいで勝手に〝子リス〟が消えてしまった。

 だからあまり長い間通話をつなげることは難しいはずなのだが、なぜかキースから送られた〝狼〟の姿は一向に消える様子がない。

 それどころかクラリスの調合室で、のんきにあくびをしたり、ゆったりとソファの上で横になったりとしてくつろいでいる。そしてたまにクラリスの側に寄ると『撫でないの?』とでも言いたげに首を傾ける。 

 そんな〝狼〟の端整な姿と可愛らしい仕草のギャップにときめき、クラリスはつい手を止めて頭を撫でてしまう。すると待っていたかのようにキースの声が聞こえた。

『お手すきになりましたか? クラリス嬢』

 少し弾んだように聞こえるキースの声に、クラリスの胸も同じように弾む。それでもできるだけその気持ちがもれないように、ゆっくりとソファに座りひと呼吸置いてから答えた。

「え、ええ。今日の分の魔法薬生成は一段落つきました。……キース様の方は何をしておいでですか? お邪魔をしてないとよろしいのですが」

『こちらは団員たちとの訓練なのですが、ちょうど中休みに入ったところですから大丈夫です』

「そう、なのですね」

 カチリ、と剣を鞘に入れる音が小さく聞こえた。本当に訓練の邪魔になっていないのかはクラリスからはわからないが、キースが会話をしても大丈夫だというのならば今尋ねるしかないだろう。

 もじもじと両手の指を合わせながら口を開いた。

「あ、あのですね、その……」

『はい。なんでしょうか』

「ええと……〝ベル〟のことなのですが、いつになればキース様の元に戻るのでしょうか?」

 初めはキースと朝から話せることが嬉しくてついお喋りに興じてしまったが、すでに昼近い時間になっている。

 キースは中隊長としての立派な立場もあれば大事な仕事もあるはずだ。優しくて責任感のあるキースがクラリスを気にしてくれているからといって、いつまでもキースの時間を奪ってはいけない。

 そう思って尋ねてみたのだが、なぜかキースからの答えがなかなか返ってこない。

「あの……キース様? 聞こえていますか?」

 とうとう魔力がつきたのかと心配したクラリスがもう一度キースの名前を呼ぶと、なんともしおらしく小さな声が聞こえた。

『……不快にさせてしまったでしょうか。その、いつまでも居座ってしまったせいで』

「はい⁉」

『申し訳ありません。クラリス嬢の迷惑も顧みず……』

「いいえ! あの、そうではなくて……〝ベル〟を使っていることでキース様の魔力に負担がかかっていたら申し訳ないと思って」

 こころなしか〝狼〟の耳も尻尾も垂れて見える。クラリスは慌てて言葉を続けた。

「その……私はこうしてキース様とお喋りできることがとても楽しいと思っています」

 そうして素直に自分の気持ちを口にすると急に恥ずかしくなり顔が赤くなる。今ここにキースがいなくて本当に良かったと思う反面、キースに面と向かって伝えたいとも思ってしまい、なんだか胸の奥がぎゅっと掴まれる気がした。

『……クラリス嬢、本当に? 自分との会話が楽しいと思われますか?』

「ええ、勿論です。ただキース様のお仕事のお邪魔になっているのではと心配なので」

 気持ちを抑えるような少し掠れた声で尋ねるキースに、クラリスは思っていることを告げると、急に目の前の〝狼〟の瞳が輝き尻尾がぶるんと跳ね上がった。

(まあ、急にどうしたのかしら? なんだかとても嬉しそう)

 そう思っているとすぐにキースからの返事が返ってきた。

『仕事の邪魔だなんてとんでもありません。クラリス嬢さえよければこのまま置いてくださいませんか』

「えっ⁉ けれど魔力が……」

『魔力はすでに最大限まで十分込めてあります。それ自体は自分にとってはたいした負担にもなりません』

「あ、はあ……」

 朝から昼近くまで消えずにいるほど〝ベル〟に魔力を込めてもなんともないほどの魔力量とは。キースの魔力量の多さがクラリスは想像もできない。

『クラリス嬢の手が空いた時にでも〝ベル〟に触れてもらえればすぐに自分へと繋がりますが、会話が止まれば〝ベル〟の接続は切れますので、クラリス嬢の個人的な会話を勝手に聞くことはありません』

「はい」

 ぐいぐいとたたみかけるように押し続けるキースの言葉に、クラリスは呆気に取られながらただただ頷くだけになってしまう。

 しかしクラリスとしては、もともとキースの〝狼〟がずっといることが気になっていたわけではなく、彼の仕事に支障があっては申し訳ないという気持ちで言い出したことだ。だから、キースがいいと言うのならばクラリスの方としても特に問題はない。

 キースが説明してくれているように隠しておかなければならない会話などは団員の診察相談くらいなものだ。

 だからそこまで言ってくれるのであれば、と返事をしようと口を開きかけた瞬間、とんでもない言葉が〝狼〟から吐き出された。

『ですから、邪魔だと思われないのでしたら——どうか貴女の側にいさせてほしい』

(——なっ、な、なにを……んっ、うううーっ!!)

 まるで愛を請うようなその台詞に、クラリスは座っていたソファから滑り落ちそうになる。心の叫びが口から漏れるのを唇をぎゅっと噛んで我慢した。

(違う、違うわよ。これは、〝ベル〟の、だから……そんな……絶対に、ないから)

 顔を真っ赤にしながら口の中だけでもごもごと呟く。勘違いなんてしてはダメだと自分に言い聞かせながら〝狼〟を見る。

『……クラリス嬢?』

 真っ直ぐにクラリスを見つめる〝狼〟の姿にキースが重なる。

「か、か……かまいま、せん」

 両手で顔を隠しながらクラリスはなんとか声を絞り出した。


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