瞬間移動魔法を覚え使用できるようになってからというもの、キースは毎日レジエンダ公爵家へ帰ってこられるようになった。
勿論、騎士団の通常勤務とともに〝デプラ〟を狙う組織やフランクの事件の犯人を追う特別捜査を率いるキースの自由になる時間は少なく、とんぼ返りになることも多いが、それでも空いた時間には必ずといっていいほどクラリスの元へと飛んでくる。
今日も、ミュリエーラたちに淑女教育を受け終わった後のお茶の途中でやってきたキースはとても疲れていたようで、クラリスの隣に座るなり体をぐっとくっつけて、肩に自身の頭を置いて目を閉じた。
「キース様、さすがに少し休まれる時間を取った方が良いのでは?」
あまりに頻繁にやってくるため、クラリスはキースの体力や魔力が気になってしまう。
キースは目を閉じたままクンッと甘えたように小さく鼻を鳴らした。
「こうしてクラリスの匂いに包まれながら声を聞くことが、自分にとって一番の安らぎです。どうか、今はこれくらいは許してください」
「う、あ……はい」
耳にかかるキースの息の熱さが、暗に「本当は甘噛みしたい」と言っている。
けれどもやはりこうしてキースの家族の前でそれを許してあげられない。この、べったりとくっついている姿を見せるだけでも恥ずかしいのに、そんなところを見せてしまったらもうレジエンダ公爵家にだっていられない気がする。
そんな気持ちのクラリスをおもんぱかってか、ミュリエーラとアリシアはキースがやってくると敢えてクラリスには声をかけないようにしているほどだ。
しばらくそうしているとキースからは規則的な寝息が聞こえだした。やはり疲れているのだろうと思い、キースの肩に自分のショールを掛けてあげようと体を動かした。
するとキースは逃がさないとでもいうように、遠慮なくクラリスに体をすりつけてきた。
「ちょっと、キース様。近いです……!」
うろたえるクラリスをミュリエーラたち、その場の使用人たちを含めた全員が微笑ましく見守っている。
なんとか体をずらしているうちに、キースを膝枕するという形に落ち着いたものの、人前でこれはこれで恥ずかしいと、クラリスの受難は続く。
そのうえ、ミュリエーラたちの方からはなんとも気の早い会話も聞こえてきた。
「そろそろマダム・ローズリーにクラリスのドレスの予約を頼んでおいた方がいいかしら?」
「そうですね、ミュリエーラ様。式のドレスと、お披露目のドレスも三着は必要ですし、今からでも遅いくらいですわ」
「わたくしたちも新調しなければならないし、明日にでもマダム・ローズリーに来てもらいましょうか」
「あら、明日は私コットン侯爵家にお呼ばれしていますの。明後日にしません?」
など、すでにクラリスがキースの花嫁になることを前提として話を進めている。
(ど、どうしましょう……。キース様とはまだ、そんなことまで話をしてもいないのに。それに、ルバック伯爵家はお世辞にもレジエンダ公爵家にふさわしい家格ではないから……)
釣り合わないことは初めからわかっている。悩んだこともあった。
ただそれでもキースと一緒にいたいと心から思ったから、こうして彼の隣にいる。
だからこうしてキースの家族であるレジエンダ公爵家の皆に、キースの花嫁としての話をされることは嬉しいのだが。
(さすがに早いと思うの……!)
「あのっ、ミュリエーラ様」
「クラリスも明後日でよろしくて? 詩作の先生はその次にしてもらえばいいわよね」
「あ、はい。……いえ、そうではなくて」
「キースは……無理かしらねえ?」
「ど、どうでしょう、か……」
クラリスが嬉しさと困惑という複雑な気持ちで悶々としていると、キースがフッと目を開けてミュリエーラたちの方を見た。
「ドレスは白で銀糸の刺繍をあしらったデザインを。アクセサリーは青のものを揃えるように頼んでおいてください。間に合えば参加しますが、時間までは約束できないので」
クラリスの膝の上に寝転んだまま、キースが口を挟んだ。自分の髪と瞳の色は絶対に外せないとリクエストをする。
「キ、キース様⁉ 起きていたんですか?」
「…………たった今、起きたところです」
その間がなんとも嘘っぽい。そんな言葉を真面目そうに言い切るキース。
耳が良く、感覚も鋭い半獣人なのだ。絶対にもっと早く。おそらく、肩にショールを掛けようとしたところで気がついていたに違いない。
(もう、もうっ。キース様ったら……。恥ずかしいのを我慢していたのに!)
恥ずかしさに顔を背けたクラリスを追って、キースが急ぎ膝から立ち上がる。
「……あの、銀と青は気に入りませんか? もし、クラリスが他の色がいいというのであれば、勿論候補にいれます」
クラリスが顔を背けたことを全く的外れな理由だと思い込んでいる。
「けれども、できれば自分の色を纏ってほしくて……」
そのうえ、そんないじらしいことまで言ってきた。
(キース様、可愛らしい……)
騎士団の中隊長であり、背が高く精悍な体つきの男性に対する言葉ではないが、こういう時は本当に獣人の耳がみえるようだ。
クラリスはソファに身を縮めて座るキースの手をそっと取った。
「キース様の銀色も青色も、私の大好きな色です」
「クラリス……!」
「でも、もう寝たふりして様子を聞いていないでくださいね」
「申し訳ありません、クラリス」
その言葉に頷くと、キースがクラリスの頬に自分の鼻を当てる。やはりこういうところが可愛いのだと、クラリスが微笑んだ。
「では、明後日はマダム・ローズリーに来てもらいますから。クラリスもきっちりとコルセットの紐を結び直しておくようにね。モーラにもよく言っておきますから、甘く締めていたら許しませんよ」
「え……あ、はい……」
公爵家に来てからというもの、コルセットには随分慣れてきたクラリスだが、どうにも苦しいのは苦手だった。モーラにもまだまだ締められますからとドレスを着る度に言われている。
そうミュリエーラに宣言されてしまえば、「はい」以外の返事は不可能と言っていい。
結局なし崩しにクラリスのドレスを作ることを決定されてしまった。
明後日の準備をしなければ、とウキウキしながらミュリエーラたちが席を外すと、キースとクラリスは二人きりで部屋に残される。
はしゃぐミュリエーラとは対照的に、クラリスはまだ少し戸惑いを隠せない。
「コルセットは苦手ですか?」
「え? ええ、そうですね。ルバック家ではドレスを着ることがなかったので慣れていないのもありますが……」
「でしたら無理に身に着けることもないのでは? クラリスはそのままでも十分細く、たおやかですし。正直自分にも、あの拷問器具のようなものを着ける意味がわかりません。いざという時にあれでは身動きがとれないでしょう」
高位貴族の養子とはいえ、半獣人のキースらしい台詞だ。クラリスは思わずクスリと笑った。
「でも、それを言ってしまえば女性のドレスは全てそうではありませんか?」
豪奢な生地をたっぷりと使い、フリルや刺繍を何層も重ねたドレスは重く、そしてとても動きにくい。ミュリエーラたちは羽のように軽く動き、踊っているように見せることができるからこそ宝石の花と呼ばれる淑女なのだ。
「自分自身を一番美しく見せたいという気持ちはわかります。だから私には、コルセットだけが悪いとばかりは言えません」
キースはクラリスの言葉を聞くとキュッキュと手のひらを握る。そしてそれを広げ、クラリスの頬へ添えた。
「それもそうですね。……ああ、だから自分たち男は、愛する女性の手を取り、守るためにこの手があるのですね」
「キース様……」
キースの手のひらの熱さが頬からじわりとクラリスに移ってくる。見つめ合い、そしてクラリスの瞳が瞼の裏に隠れると、キースの唇がクラリスの唇にそっと重なった。
「愛しています、クラリス。自分だけの花嫁になってくださいますか?」
クラリスを抱きしめるキースの腕が少しだけ震えている。
返事などわかりきっているのに、と思うクラリスの唇も震えている。
甘噛みのような獣人の求婚行動ではない。
生まれて初めてのプロポーズに、クラリスは涙が出るくらい幸せな感情で満たされた。