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第62話 プリンセス

 館内放送がシャチのショー開始時間を告げる。

 あと10分。もうすぐだ。


「急ごう!」


 マナトさんに手を引かれ早足で屋外へ。

 野外スタジアムに近づくと大きな歓声が聞こえてきた。

 次いで、巨体が水面を叩く派手な音も耳に届く。

 きっとショーのフライングアクションだ。

 私たちは大急ぎで白い階段を駆け上がった。

 太陽の光が降り注ぐ広いプールに、三つの背びれが見えている。

 プールを取り囲むように広がるすり鉢状の観客席は、すでにたくさんの家族連れやカップルで埋め尽くされている。

 私たちは運よく中段あたりの席を確保した。

 陽気な音楽と共にショーが始まった。

 飼育員のお兄さん、お姉さんたちの軽快なアナウンスに合わせて大きな体のシャチたちが、ダイナミックで愛嬌たっぷりのパフォーマンスを見せてくれる。

 高くジャンプしたり、トレーナーを背中に乗せて悠々と泳いだり、大きな尾びれで挨拶するように水面を叩いたり。

 その迫力と賢さ、そして可愛らしさに私はすっかり魅了された。


「うわあああっ」

「すごいっ!」


 何かシャチがアクションを起こす度に歓声をあげ、手を叩く。すっかり童心に戻ってしまった。

 ショーが中盤に差し掛かった頃、トレーナーのお姉さんがマイクを持って観客席に呼びかけた。


「みんな、楽しんでくれてるかな? ここでシャチのララから特別なキスのプレゼントがあるよ~!」

「わーい!!」


 あちこちから子供たちの元気な声が上がる。


「キスのお相手はララが決めるよー。さあ、誰を選ぶかな?」


 会場が一気にわき上がる。

 トレーナーの声に応えるように、ララと呼ばれたシャチが巨体を翻し観客席とプールを仕切る透明な壁に向かってピタリと静止した。


(止まっていてもすごい迫力。なんて美しい生き物なの) 私は思わず見とれてしまう。

 選ばれるのはきっと元気な子供だろう。

 でも、欲を言えばシャチと触れてみたいという願望はあった。


「さあ、ララ、今日のラッキーなプリンスかプリンセスはだーれだ?」


 ララは観客席をじっと見回すようなムーブメントをした。

 みんな固唾をのんでその様子を見守っている。

 まさか自分が選ばれるなんて思ってもいないけれど、なんだかドキドキする。

 と、その時だった。シャチが、私たちの座っているあたりを向いて、きゅう、と可愛らしい鳴き声を上げたのだ。


「なるほど、ロングヘアのお姉さんだね! どうぞ!」


 手招かれているのが自分だと認識するのに数秒かかった。

 気づいた瞬間、頭の中が真っ白になり周囲の音が遠のいていく。


「きゃー! おめでとうございます!」

「すごいラッキー!」


 拍手と歓声がわき起こり、近くの席の人たちが好意的な眼差しで声をかけてくれた。


「さあ、どうぞステージへ!」


 二度目の促しに、私は呆然としたままふらふらと立ち上がった。申し訳なさが胸をよぎる。

 だって、こんなに美しい海の王者に招かれたのが何者でもない私だなんて。

 隣を見ると、マナトさんが、口の端を上げて面白そうに私を見ていた。


「行っておいで、プリンセス」


 プリンセス……。


 マナトさんの声に後押しされて、私はドキドキしながらプールサイドへと歩を進める。

 大きなシャチが、つぶらな瞳で私を見つめている。

 プールの縁にそっと腰を下ろすと、シャチがゆっくりと顔を近づけてきた。そして……。

 チュッ!

 大きくて、ひんやりとして、でもどこか優しい感触のキスが、私の頬に贈られた。

 会場からは、ひときわ大きな歓声と拍手が沸き起こる。なんだか恥ずかしいけれど、すごく嬉しい。

 シャチのつるつるした肌触りと、潮の香りが、忘れられない思い出になりそうだ。


「シャチにまで気に入られるなんて、君はやっぱり持ってるね。まさに今日のプリンセスだ」


 席に戻ると、マナトさんが心底楽しそうにそう言った。

 私がどれほどシャチに憧れているか、そのせいでどれほど気後れしているか彼は知らない。

 そんな中、彼の励ましがどれほど勇気づけてくれたかも……。


「ありがとうございます。マナトさんのおかげで、いい記念になりました」


 様々な思いをこめてそう告げる。


「俺のおかげ? ん? これに関しては仕込みはないけど……」

「仕込み?」

「あ、いや、なんでもない」


 そしてマナトさんは腕を組んだ。


「しかしまあ、いくらシャチとはいえ、ちょっとムカつく。俺のみかりんにキスするなんて。やっぱり敵だ」


 マナトさんは本気とも冗談ともつかない顔でプールのララをじっと睨む。

 その時だった。ショーのフィナーレで別なシャチが特大のジャンプを披露した。

 次の瞬間、まるで壁のような水しぶきが客席に襲い掛かった。

 前の席だけでなく、私たちのいるところまで。


「きゃっ」


 突然降りかかってきた冷たい海水に、私は思わず悲鳴を上げた。


「大丈夫? みかりん?」


 マナトさんが心配そうに私の顔をのぞき込む。

 彼の濡れた前髪から滴った水が、すっと首筋を伝ってダンガリーシャツに隠れた鎖骨へと滑り落ちていく。

 その一滴の雫から、私は何故か目が離せない。


(うわ……色っぽい……)


 無意識に見とれていると、彼が「まいったな」とでもいうように笑って、わしゃわしゃと自分の髪をかき上げた。

 その拍子に、またキラキラとした飛沫が飛び散り、太陽の光を反射して輝く。

 無防備な仕草と、濡れた肌の艶やかさに、私の頬がカッと熱くなるのを感じた。


「あ、はい、だ、大丈夫です……ちょっと……いえ、かなり濡れちゃいましたね……」


 彼のあまりの色っぽさについ、しどろもどろになってしまった。


「このままじゃ風邪をひくな。よし。行こう」


 マナトさんは何か思いついたように、私の手をとった。


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