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9月 9

 真ん中? とこそこそ言いつつ、学生たちがアルトとテノールの間に椅子を置いた。三喜雄は彼らに会釈してから、荷物とともにそちらに移動する。確かにこの曲では、ソリストの中でバリトンが一番出番が多いのだが、普段と違う位置取りをするのはやや落ち着かなかった。

 場が静まると、袴田が指揮棒を構え、ピアノの前の久宮もそちらを見る。

 すっ、と三喜雄の背後の合唱が一斉に息を吸った。


「『楽しい時がやってきた』!」


 歌の入りがきれいに揃った。選抜メンバーだけあって、どのパートも音程が良い。三喜雄も気分良く第一声を発することができた。


「『おお、どこも花盛り、乙女たちへの新しい愛に身を焦がして』」


 テンポは少しゆっくり目だったが、最後まで転ぶことも無く通った。全員が歌い切って終わると、わぁ、と合唱がざわめいた。


「ほんとにいいお声!」

「めっちゃ後ろにも飛んでくる……」


 集会場の響きも悪くないので、そんなに褒められたものでもないと三喜雄は思うのだが、合唱に近い場所で歌っているのが、学生たちには新鮮なようだった。

 彼らの中には、至近距離でプロのソリストの声を聴く機会が、これまで無かった者もおそらくいる。三喜雄は突出した歌手ではないが、ソリストとはこういう声を出すために、日々訓練している人種なのだと感じてもらえると嬉しい。

 なまじ合唱に近い場所に立ったせいで、男声にも女声にも歌詞が話せていない子が割といることに三喜雄は気づいた。現時点ではまだ仕方ないだろうけれど、ポテンシャルが高そうなので今から修正に入ってもいい。

 とはいえ、前に立つ袴田の様子を見ても、今の演奏が良かったことが窺えた。三喜雄があまり指導に口を挟むべきではないが、少し歌詞読みをさせたらいいと、タイミングが合えばちらっと話しておこうと思った。

 数箇所の確認をしてから、バリトンソロと混声合唱が絡むもう1曲をさらった。こちらはソロが先導して合唱が盛り上がるが、途中でテンポがどんどん巻いていくのが難しい。


「『私の恋人は帰ってこない』!」


 ピアノ伴奏の久宮が、スタッカートの8分音符を、クリアな音で正確に刻み続けるのが三喜雄の耳に届く。本番でも合唱を支えるのはピアノの音なので(この曲はオーケストラの編成に2台のピアノが入っている)、合唱もイメージしやすくていいだろう。今はすっかり、久宮がテンポを作ってしまっていたが。

 同じメロディが3回繰り返されるが、三喜雄は今日は、自分が最初のテンポにしっかり戻すことだけに集中した。それに久宮がついてきてくれるのが気持ちいい。アンサンブル・ピアニストとして彼の名を聞いたことが無いが、なかなかいい弾き手だ。

 最後まで曲を通し終わると、袴田が男声に指示した。


「ソロが音伸ばしてるとこ、滑らかさは保ったままもっと音量出せる? 片山さんクレッシェンドしてきたらみんな負けてるよ」


 ソロの音を消さないように遠慮してるのかなと、三喜雄も思っていた箇所だったが、単にあまり合唱に余裕がないようだった。

 あっという間に1時間が過ぎて、パート練習の前に15分の休憩に入った。その時、女声の指導を担当するトレーナーとピアニストが、車が混んでいて30分ほど遅れるという連絡が来たと、桧山が袴田に小さく伝えた。


「えーっ、せっかく片山さん来てくれてるから、男声がっつり練習したいのに」


 袴田は不満気に言う。それは、三喜雄も同感だ。


「袴田先生、お2人が来るまで男声を私が見ておきましょうか? 何をやっておけばいいか、教えてくださったら」


 袴田はちょっと驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になった。


「あ、片山さん小中学生に教えてるんだよね」

「はい、その子たちよりはある意味教えやすいので」


 人数は普段の授業の1.5倍だが。しかし昨年も北海道で同じ流れになったため、大学生の反応は想像できる。

 曲目を確認し、進捗を袴田に伝えてバトンタッチする段取りが整った。久宮が伴奏してくれるというので、頼もしい。三喜雄は楽譜と水筒と筆記用具を持ち直し、少し気合いを入れて小集会室に向かった。



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