「はいっ、女声の先生がたの到着が遅れてるらしいので、しばらく片山さんが指導してくださることになりました!」
男声パートが全員揃ったことを確認した中原が言うと、拍手が起こり、おおっ! だとか、素晴らしい! とかいう声があちこちで上がった。こういうノリが、オタク風味の男の歌い手感が高くて、同類である三喜雄は微妙に安心してしまう。
中原が注意喚起した。
「全体練習の前にお伝えできませんでしたが、片山さんから先生と呼ばないでほしいという要望を承っているので、そのようにお願いします」
「え、呼んだらどうなるの?」
バスパートの後ろの方から質問と笑いが出た。中原はもっともらしく返答する。
「毒を吐かれます、身体が痺れて動けなくなるので危険です」
笑いがざわざわと広がって、三喜雄はややいたたまれない。このタイミングでネタにされるとは、不覚だった。
今度はテノールパートから小さく声がした。
「すみません、吐かれてみたいんですが」
「そういう性癖の持ち主もいるという表明に留めてください」
合唱団の笑いが止まらない。ピアノの傍に立っていた三喜雄は、背後から久宮に声をかけられた。
「あの子に何をおっしゃったんですか?」
「え? 先生と呼んでおけば間違いないという感じが嫌だって最後に言いました……中原くんがそうだとは思ってないですよ」
三喜雄がありていに答えると、久宮まで下を向いて笑う。
「きっつ……」
「そうですかね……」
中原が会釈して自分の席に戻ったので、三喜雄は気を取り直して、むさ苦しい合唱団に頭を下げる。
「諸所ご配慮賜りありがとうございます……よろしくお願いします、では早速なんですけど」
三喜雄が楽譜のページを伝えると、あちこちから溜め息が洩れた。なるほど、と思う。
「袴田先生が『プエル・クム・プエッラ』がかなり危機感が高いので、私から違うアプローチをしてみてほしいとおっしゃいました」
60小節ほどの小曲だが、アカペラでテノールとバス3部ずつの6部合唱になり、後半、バスの歌詞がほぼ早口言葉という難曲だ。
「全員で歌いますね?」
最後列に座る、テノールとバスのパートリーダーがはい、と答えた。バスのリーダーが隣家の山下であることに気づいて、三喜雄は小さくおっ、と言ってしまった。山下は満面の笑みでこちらを見ている。
「じゃあ最後まで聴かせてください、止めないです」
久宮が低い音から順に6つの音を鳴らす。三喜雄は小さく手を振り、1拍の休符で自分も息を吸った。
「『もし男の子と女の子が一つ部屋にいたら』」
期待に違わず、バスはもそもそと自信無さげに歌い始める。続くテノールが張り切り過ぎて笑えてしまうのも、この曲あるあるだ。
「『幸せなその結びつき!』」
次のバスのハーモニーは、すでに崩れていた。
「『愛は高まり』」
「『恥じらいは遠のく』……」
三喜雄がソロを歌うと、合唱団が少し元気づいたが、次の言葉の多いフレーズでほぼ崩壊した。
「『口には出せない悦びが、手を、足を、唇を駆け巡る』」
三喜雄はバスパートを励ます。
「歌い切って、はい、"Si"!」
最初のメロディが戻り、テノールが意気揚々と長い音を伸ばしたが、ちょっとハーモニーが怪しかった。
久宮がピアノの前で苦笑しているのが見えたので、三喜雄は辛うじて笑いを堪えたが、とりあえず感想を述べた。
「はい、想定内でした、実はこの曲はかなりお客さんの印象に残るので頑張りましょうね」
ああ、という長い溜め息が部屋の中に澱む。彼らだってソリストに、格好の悪いところを見せたくはなかっただろうから、今のこの選曲は袴田の愛のムチなのかもしれなかった。