バスの難所に差し掛かる。案外こういう時は、音程と言葉の発音を一緒に練習したほうが早く身体に入るので、三喜雄はやはり学生たちに、音程をつけた母音唱をさせてみる。案の定、半分くらいのメンバーが脱落した。
「ここ、歌詞を把握しないまま練習を積んだら、テンポ転んで自分たちの首を絞めますよ……私は皆さんのテンポに合わせますから、皆さんが早かったら早く歌っちゃいます」
合唱の合間にソロが入ってエコーになるが、テンポを決めるのは先行する合唱なのだ。
「1パートずついきます、3rdからどうぞ……変拍子っぽいのに惑わされないで」
三喜雄が次々と個々のパートを指名し何度も歌わせるので、バスの面々はおろおろする。
「集中してついてきて、数こなすのが一番だから……間違えてもいいから堂々と歌ってください、今はまだ許されます」
本当は3人ずつくらいで順番に全員に歌わせたいところだが、時間が無いので無理だ。それでも1パート8人ほどで歌うのは、合唱団にはいい勉強になるはずだった。
「はい、だいぶ形になってきましたよ」
褒めることを忘れてはいけない。これは小学生を教える中で学んだことだ。
「あと、子音が回らない問題は、歌詞の音読100回で改善されます、最初は今くらいの速さからね」
100回は少し大げさだが、これは純粋に語学の勉強にも役立つ。何語でも早く音読できるようになれば、その後の練習の効率化に繋がるのだ。
バスパートがひいひい言いながら難所をさらっている最中に、袴田がそっと集会室に入ってきた。三喜雄は時計を確認して、40分経つことに気づく。
「はい、とりあえず楽譜は最後まで見たので、袴田先生に成果を披露しますか?」
三喜雄は手を止めて、合唱の面々に訊く。はい、と意外に威勢の良い返事が響いた。若い合唱団は、こういう勢いがあっていいと思う。
袴田が三喜雄と場所を交代する。
「すみません片山さん、がっつり任せちゃって」
「いえ、多少良くなってたらいいんですけど」
アカペラの反復練習に、的確に音を拾って合唱に提供してくれた久宮に礼を言ってから、三喜雄はバスパートの傍に座った。
袴田が指揮棒を出して、皆に注意を促した。
「じゃあ特訓の成果を聴かせてもらおうかな、片山さんソロお願いします……テンポ感に慣れるために、そのまま次の曲の二重合唱になる直前まで行くよ」
袴田が指揮棒を振ると、多少自信もついたのだろう、バスの最初の音がぴたりと嵌って鳴った。テノールも力任せだった高音に、少し余裕がある。
バスのハーモニーがきれいに響いた。三喜雄も身体に息を入れる。
「『愛は高まり』」
「『恥じらいは遠のく』」
袴田の口許が綻んだ。ピアノの前で、音を出さずに座る久宮も、微笑して合唱団を見ている。
「『口には出せない悦びが、手を、足を、唇を駆け巡る』」
三喜雄は丁寧に発音した。続けて全く同じことを歌うバスパートの見本になればいいと思う。
最初のメロディが戻ってきて、テノールの長い音符で曲が締めくくられた。三喜雄がそっと腰を下ろすと、袴田の指揮棒が素早く上がって、久宮がリズミカルに前奏を叩き始めた。
袴田がこちらを見るので、三喜雄は軽く驚き楽譜のページを繰った。
「『おいで、おいでよ、今すぐここに』」
三喜雄が歌ったのは、合唱のソプラノパートだった。追いかける形で、男声合唱がはり切って入ってくる。
「『おいで、おいでよ』」
女声パートを三喜雄が1オクターブ下で歌い、合唱との掛け合いが進む。
「『私を痛みで死なせないで』」
「『私を痛みで死なせないで!』」
伴奏が盛り上がり、合唱の掛け声が交差した。オーケストラが来ると、パーカッションがいろいろな楽器を使って楽しい部分だ。
はいはい、と袴田が手を振り、ピアノが止まった。
「はい、片山さんがエロくていいですねぇ、皆さんも見習いましょう……あっでも、音と発音格段に良くなった、正直びっくり」
袴田に評された無邪気な合唱男子たちは、さわさわと喜びの囁きを交わし合う。短い時間の練習で目に見えて良くなってくれたので、三喜雄もひと安心だ。