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9月 13

 短い休憩が取られたので、テノールとバスのパートリーダーも呼んで、袴田と情報共有する。


「出演メンバー全員が初めて揃った割には、縦は揃ってるんじゃないかと思います……歌詞は課題が多いですけど、できてないからといって合奏で萎縮したり、口パクしたりしないように持って行きたいとこですかね」


 もう丸2日学生たちと一緒にいる袴田に、言うまでもないことではあったが、一応自分の印象を伝えておいた。

 袴田は三喜雄の言葉に苦笑した。


「シャイな子も多いからね、自分が乱したらどうしようってすぐにビビっちゃう」


 おそらくそんなシャイさは持ち合わせていないバスのパートリーダーの山下が、テノールのパートリーダーと話し合う。


「2回目の合宿までに、男声だけでも、もう1回集まったほうがいいかな」

「女声も女声だけでやろうかとか、今朝話してました」

「じゃあ男声もやろう」


 音楽学部ではない学生たちが、課外活動のために時間を作り集まろうとするのは、熱心さの証だ。最近の若い子は何に対しても必死にならないと言う人も多いが、いつだって一生懸命な子はいる。三喜雄はそれを目の当たりにして、同じ舞台に立つ者として嬉しく思う。


「女声陣が野郎どもばっかり片山さんと歌ってずるいと文句言ってるんで、後でまた合奏していい?」


 袴田に言われ、三喜雄は思わず笑ってしまった。この曲の構成上、仕方ないのだが。


「どうしたら満足してもらえますかね」

「バリトンソロの曲の直後に合唱がアタッカのとことか、入りの確認がてらつき合ってやってもらおうかなぁ」


 全体の雰囲気を掴むために、ざっと通すのもいいかもしれない。

 休憩が終わる直前に、山下がすすっと三喜雄に近づいてきた。


「片山さん、最後までいらっしゃるんだったら、横浜駅かどこかまで親に迎えに来てもらうんで、乗って帰りませんか?」


 デートに誘うような口ぶりに、三喜雄は笑いを堪えた。


「ありがとう、マネージャーが5時過ぎに迎えに来るから、お気遣いなく……今日解散してから打ち上げとかあるでしょ?」

「あ、昨日の夜に全員でひと通り騒いだんですよ」


 なるほど、と思いつつ、今自分がここで首を縦に振るのはまずいだろうなと三喜雄は考えていた。現にテノールのパートリーダーや中原が、何の話をしているのかと訊きたげな顔をしている。


「そうなんだ、でも山下さんリーダーだし、幹事というかそっちメンバーであらためて集まるでしょ?」


 山下は軽く口をへの字にした。


「うーん、まあたぶん、誘われるんですけど」

「じゃあ行っとこ、俺なんかにかまうより得るもの多いと思うよ」


 三喜雄は若者に明るく言った。山下は自分のファンのようなので、話したいと思ってくれているようだけれど、ごくごく近所に暮らしているのだから、それは今日でなくてもいい。

 袴田が練習再開を告げたので、山下は三喜雄にすみません、と言ってから自分の席に戻った。久宮がペットボトルの水を片手に、訊いてくる。


「山下くんどうしたんです、片山さん彼とお知り合いなんですか?」


 マンションの隣人です、と言いかけて、慎重にごまかした。


「自宅……の最寄りが一緒なんですよ、結構ご近所で」


 へぇ、と久宮は切れ長の目を見開いた。三喜雄は声を少し落とす。


「それで家族に車出させて送るって言ってくれたんですけど、ありとあらゆる理由で申し訳ないから断りました」

「そうですねぇ、OKしたら片山さんの近所の子がみんな送りたがりますよ」


 久宮に言われて、やや自分のガードが甘いかと三喜雄は軽く反省した。「憧れられる立場」のようなので、学生を相手にする時は公平に接する必要がある。

 袴田が手を叩き、三喜雄はソリスト席に急いだ。


「はーいでは、『オーリム・ラクス』からいきましょう、3時半までに第2章全部行くよ」


 はい、と合唱に気合いが入る。三喜雄は学生たちのその様子を見て、本番が良いものになるだろうという期待が膨らむのを感じた。

 こういう場面に行き合うのは、共演者として本当に幸せだ。だからこそ自分も、この合唱団に尊敬されるソリストでありたいと思える。

 合唱曲のソリストの仕事を好んで引き受ける三喜雄を、少し変わっていると瀧や事務所は言うけれど、オペラの役付きになるのとは違う面白さややり甲斐がある。それをしょぼいと評されるのであれば、三喜雄は生涯「しょぼいバリトン」でいいと思うのだった。



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