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9 メメント・モリ

10月 1

 新しいタキシードが仕上がったと連絡があり、麻布の店舗に翌々日に引き取りに行った。着用する予定のコンサートのちょうど1週間前である。

 衣装のお目付け役のノアに視線を注がれながら、三喜雄はぴかぴかの礼装を試着した。シャツとネクタイも頼んでいたので、仕事帰りに総着替えする羽目になったが、肌触りの良いシャツや、生地がつやつやしているジャケットに腕を通すのは、やはり楽しく心ときめくものだ。

 広々とした試着室のカーテンを引くと、店主とノアが笑顔で迎えてくれた。


「着心地はどうですか、見た感じはとても素敵ですよ」


 店主に言われて、三喜雄は両腕をゆっくり回してみた。肩や腕の詰まりは全く感じられず、堅い恰好をしている時の窮屈さが無い。ウェストコートも、きちんと身につければ着崩れしないし、スマートに見える。

 ソリストとして舞台に上がる時、座って待機する時間が長いことも多いので、三喜雄は座っている時のパンツの履き心地と、立ち上がってすぐに形が整うことを、店主に一番求めていた。用意された椅子に早速腰を下ろすと、これも腰や股関節に違和感が一切無く、ジーンズより楽なくらいだ。

 三喜雄はフルオーダースーツの底力を見せつけられ、まともな感想が出なかった。お値段だけのことはある。


「あ、えっと、とてもいいと思います」


 三喜雄がもたもたと店主に伝えると、彼はにっこり笑った。ノアも満足そうに頷く。

 店主は失礼、と言ってから、三喜雄の襟元に手を伸ばし、黒い蝶ネクタイの歪みを少し直した。


「今特に違和感が無いようでしたら、そのままお渡しします……本番の際に何か感じられましたら、すぐに調整しますのでまたお持ちください」


 一回持って帰って着た後でも直してくれるのか。三喜雄は驚いた。

 ノアはスマートフォンを鞄から出して、カメラを三喜雄に向ける。


「撮っておきましょう、こっち向いて」

「カレンバウアーさんは、片山さんより嬉しそうですね」


 店主に軽くからかわれながら、ノアはシャッターを切る。本当に七五三のようで、三喜雄は気恥ずかしくなった。


「でも片山さんは正装がお似合いです……平服でお越しの時は予想できなかったんですけど、採寸したら身体のバランスがスーツ向きだとわかりました」

「全然自覚が無かったです、意外とタキシード似合うと言われることはたまにありましたけど」


 店主に三喜雄が応じると、ノアが微笑しながら言った。


「タキシード姿の三喜雄は素敵だからと言ったでしょう?」

「そんな、平均的日本人男子の身長体重なのに、本気にできません」


 謙遜でなく、三喜雄は答える。店主は2人の会話を聞き、軽く笑った。


「片山さんが普段カジュアル中心で、体型がはっきり出る恰好をなさらないから、余計わからなかったのでしょうね……スーツは着慣れることできれいに見せることができますから、片山さんもこれから普段着る回数を増やされるといいですよ」


 それは仕事上難しいと思うが、フォーマルの姿を褒められるのは嬉しいので、ノアほどでなくとも、スーツ姿に力を入れるのもいいかもしれない。

 汚さないように慎重に衣装を脱いで、いつもの自分に戻った。結局ノアに半額、前金という形で払わせてしまったまま、クレジットカードで清算した。それでも大きな買い物だが、長く着る衣装だ。大切にしようと思う。

 ガーメントバッグを右手にぶら下げ店を出ると、三喜雄はすぐにノアに礼を言った。


「どうもありがとうございます」


 ノアは嬉しそうににこにこしていた。


「燕尾は11月末には間に合いそうですね、ひとつひとつの舞台を、大事にしてください」

「はい」


 三喜雄はノアがにこやかなのを見て、少しほっとした。先月末の日曜日、教会から戻ってきて以来、やや元気が無かったからだ。


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