ノアは月の最後の日曜日にだけ、聖体拝領のために近所の教会の礼拝に出席する。ドイツに居た頃から、彼はそれくらいのペースでしか教会には行かなかったらしく、日本でもクリスチャンとしての最低限の務めを果たしているだけだと話した。
月1回の出席と言えども、それなりに教会に馴染んでいると見えて、昼前に戻ってくるといつもノアは何となくすっきりした顔をしている。しかしこの間はそうではなく、昼食の間も目を伏せ気味で、教会で会った人の話などをほとんどしなかった。
三喜雄は理由をノアに尋ねなかった。話したい時は話してくれるだろうし、無理に聞き出す必要はない。ノアは外に出れば、心の赴くままに行動できない立場でもある。だから家に居る時は、気分が良くないなら素直に顔に出してくれたらいいのだ。ちょっと気にはなるけれど、理由を話そうが話すまいが、彼の自由だから構わない(三喜雄自身がその原因でない限りは)。
目黒まで戻ってから食材を買い、マンションに戻った。三喜雄はタキシードをガーメントバッグからすぐに出し、自室のウォークインクローゼットのハンガーにぶら下げた。再来週これを着るのが楽しみなので、三喜雄はタキシードの写真を撮って、SNSにアップしておく。
『舞台衣装を新調しました。「ドイツ・レクイエム」の日に初お目見えです』
ブラームスの「ドイツ・レクイエム」は、都内を本拠地にしているオーケストラ、首都交響楽団の定期演奏会での演目だ。三喜雄にチケットノルマは無いが、売ってくれたら嬉しいとオケから言われたので、見込みのありそうな人にアナウンスしている。おかげでだいぶ席も埋まっていると聞いた。
リビングではノアが夕飯の準備を始めていた。麻布から会社に戻るのかと三喜雄は思っていたが、今日はもう仕事はいいのだとノアは言い、一から作るつもりで食材を買っていた。
「手伝います、味噌汁の具とか切ります」
三喜雄は冷蔵庫の野菜室を開ける。面倒な自炊も2人でやれば、かなり楽になる。
「はい、お願いします」
ノアは切って茹でたにんじんとアスパラガスに、薄切りの豚肉を巻いていた。この人は器用で、しかもこういう作業が嫌いではないらしく、いつも三喜雄よりきれいに仕上げる(美意識の問題かもしれない)。
三喜雄は味噌汁のために切ったキャベツと玉ねぎを、出汁の中に入れた。ノアが揺するフライパンの上では、肉巻きが転がりながら焼けている。
「サラダはレタスときゅうりでいいですね?」
「アボカドも無かったですか?」
こんな風に段取りを確認していると、もう長くノアと暮らしているように錯覚する。大学院に受かって東京に出てきて以降、ずっと独りで暮らしてきた三喜雄は、緊急にこの家に移ってきた時、他人と一緒にやっていけるか不安だった。今思えば、それは全くの杞憂だったのだ。
質素だがきちんとした食事をのんびり楽しみ、洗い物を食洗機に入れると、ほっとする時間が来る。ソファに腰を下ろしたノアは、さっき麻布のテーラーで撮った写真を送ってくれた。
三喜雄は画像を開き、ちょっと照れ臭げな自分の写真を、気持ち悪いなと思いながら苦笑混じりに眺める。一応礼を言うべく顔を上げると、ノアは同じ写真が表示されているスマートフォンの画面を、何とも言えない切ない表情で見ていることに気づいた。
どうかしたのか。やや普通でない空気を感じて、三喜雄はつい、ノアさん、と呼びかけた。彼はぱっと視線を上げた。
「ああ……フェリックスが事故に遭う1年前に、ピアノのコンサート……日本で言うところの教室の発表会ですけど、初めてタキシードを着たことを思い出して」