太一郎は、はああ、と、大げさなほどのため息を吐いて見せる。だが言うまでもなく、太一郎が巨体すぎるのである。
太一郎は日頃から、本人の性格も相まってすべての動作がおっとり緩慢である。稀に俊敏な動きを見せるのだが、それは仲間や老人、女子供が危険にさらされたときくらいのもので、万事おっとりゆったりしている。
つまり、せっかく相手の太刀筋を見事に読み切っても、それをかわす動作がのっそりとしているため、太一郎がよいしょと動いたときには相手は太一郎の急所を打っているのである。
これが真剣を使った実戦であったなら、太一郎は疾うに死んでいる。これまでこのお人好しの親分が死なずに済んだのは、古くから衣笠組に伝わる伝統的なやくざ戦法のおかげ――つまり、親分は高いところや遠くから指示を出し、若い衆が実際に戦う、それのおかげである。
……とはいえ、太一郎の性格上、可愛がっている若い衆が危険な目に遭うのは我慢できない。そのため、激しい戦いになればなるほど自らも刀を抜いて戦乱に踊りこむ。
誰かのためなら太一郎の太刀筋は冴え渡り、凶刃と化すのである。
「そういえば親分、先だっての道場破り、土方さんの偽物どもは、いずれもどうしようもない破落戸だったと母上が……」
英次郎が最後まで言わないうちに、太一郎がギョッとした顔をした。
「お絹さまのお耳にかような物騒な話が入ってしもうたのか」
「母上どころか、長崎屋のクルチウス商館長たちや蘭学者の間でも話題に出たぞ」
「……なんともはや……」
「あれだけ読売が派手に書き立てれば、知らぬ人の方が少ないと思うぞ」
「うむ……仕方あるまいな……」
大川に浮かんだ三人は、江戸の町で散々悪さを働いていた。気に入らなければ斬るという物騒な連中であったらしい。
たとえば攘夷派に見せかけて異人を襲撃する。そのため、クルチウスたちの定宿に役人が注意をしにきた。
或いは、道ゆく人が裕福な商人と見れば強請りたかりをはたらき、好みの女性と見れば声をかけ否応なく連れ去り手籠にする。蘭学者や長崎屋の知り合いが、泣いていた。
英次郎の周りにも、被害は及んでいた。ゆえに、謎の怪力剣士の所業に喜んだ人も少なくないのだ。
「英次郎……誰もが住み良い町にせねばならんな」
英次郎が頷いた。
「親分、秋風が心地よい季節になったら、せめて五日に一度は道場へ顔を見せるといい」
「五日に一度、な……」
「腕前をな、磨くということは、自分を守ることにも繋がるゆえ……」
英次郎とお絹は、少し心配していた。太一郎の優しさと義侠心、そして剣の腕が、いつか太一郎を危険に晒すのでは、と。
だが、太一郎が、ふぅ、と、太く悩まし気な息をつく。
「親分?」
「道場がちと遠いぞ。出稽古なぞしてもらえぬのかな。いや、門弟がわし一人では申し訳ないゆえ、うちの血の気の多い連中やご近所の悪童やおかみさん連中をあつめて……」
「親分、気持ちはわからぬでもないぞ。でもな、歩くのも足腰の鍛錬ゆえ通うのが良いと思う」
「はぁ……五日に一度……七日に一度ではだめか?」
「三日といいたいが五日」
英次郎が、五本指を広げて親分の前に突き出した。
「五日、か……」
そろり、と、親分が英次郎の指を折り曲げるが英次郎の指はすぐにぴんと伸びる。
「親分、五日に一度。やってみぬか? それがしもできる限り一緒に通う」
合点承知の助、と威勢よく叫んだのは、太一郎ではなく組の若い衆だった。親分の部屋の外で聞き耳を立てていたらしい。からりと襖を開けて、どどどっと飛び込んできた。
「英次郎兄ぃ、あっしらが責任もって親分を道場へお連れいたしやす」
「む、えらく気合が入っておるな」
「へぇ! まさか、この酷暑のおりに、親分がここまで大きくなるとは思いませんでした」
「……まぁ、通常ならば、痩せるものであるが……」
英次郎は、親分の胴回りをちらりと眺めた。なぜか、この暑さだというのに親分の腹回りは肉が増えているのである。
「親分、なにをしたらそのように肉が増えるのだ?」
英次郎の問いに、太一郎は不思議そうな顔をした。
「暑いであろう? だからじゃ」
「親分! 通常は暑いと痩せるんです」
と叫んだのは、衣笠組に預けられている少年幸太である。
「されど、菜だの米だの魚だのは食う気がおこらぬ。ゆえに、蕎麦と素麺と羊羹とかすていらと氷水とで命を繋いでおったら、こうなった。例年のことであるゆえ、驚きはせぬが……」
「な、なんと……」
ぎこちなく英次郎が、衣笠組の連中を見る。
「へぇ、今年の親分は、朝の素振りと夜回り以外はほとんど部屋から動かず、暑さが酷いから滋養をつけねばならんと毎日、一日八食でした」
と、若い衆が呆れたように付け加えた。八食、と、英次郎がぽかんとして太一郎を見た。
「おれや母上など、食が細って食べられず大変だったぞ……」
「美味しいものはしっかり食わねばならん。これは、我が組の掟であるぞ」
そんな掟は聞いたことがないぞ、と、若い衆が嘆いた。
本所界隈を取り仕切りるやくざの親分の周りで交わされる会話が、この長閑さである。
英次郎はからりと笑った。