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第六章

第六章 だいたい毎回あいつのせい①

 息を切らせながら、廊下を走り続ける。がむしゃらに、ただこの先に和泉がいるんだと信じて。絶対に助けるんだと思いながらひた走る。


 その時、ふわりと、懐かしい匂いがした。


 何だろうと、匂いのする方に鼻をひくつかせる。花……だろうか? そこに確証はないけれど。それでもなんとなく、そうだと思った。

 胸の奥がくすぐられるかのような、そんな淡さがあったから。俺の足は自然とそこに向いていた。

 きっと、色々ありすぎて脳が麻痺していたんだと思う。じゃないとそこに向かおうとは思わなかっただろうから。


 目の前に広がった光景に、思わずはっと息を呑んだ。


 廊下を抜けた先、そこには西洋らしい噴水がある大きな中庭(と呼ぶには大きすぎる気もする)があった。そして、その足下を彩るように名前も知らないような黄色い花が一面に咲き乱れている。

 その光景には見覚えはないけれど、その色には見覚えがあった。

 記憶の中で、誰かが泣いている。

 夕焼け空の下、女の子が声を上げて泣いている。

 足下には、無惨に割れた桜の髪飾り。ひざには痛々しい擦り傷があって、薄く血がにじんでいるのが見えた。


「大丈夫か?」


 そう尋ねても返事はなかった。どうしたらいいのか分からなくて、彼女が泣きやむまで側にいようと、とりあえず決めた。けれど、彼女は泣きやむどころか、泣き声はどんどん大きくなっていく。


「痛いのか?」


 そう尋ねると、彼女は違うとでも言うように首を左右に振った。さて、これは困ったと俺は彼女の隣に座り込んで考える。

 その時の俺はお使いの最中だった。今日はお客様が来るからと、母がキッチンで忙しくしていたから、じゃあ俺が買い物に行ってくるよと名乗りを上げた。

 少し離れたスーパーで頼まれたものを買い、えっちらおっちら帰っているとき、途中にある公園からわーんわーんと大きな泣き声が聞こえた。最初は無視しようとした。だって早く帰らなければいけないし。心の中で謝罪して一度は通り過ぎた。けれど、頭の中には少し前に学校の授業で見た防犯対策の映像がちらついて、しばらく思案した後、結局俺はその泣き声の元へ行くことにした。


 すると、そこには女の子がいた。見たことのない子だと思った。

 彼女がどうして泣いているのかいよいよ分からなくなったとき、もしかしてと桜の髪飾りを拾い上げた。


「これが壊れたからか?」


 女の子はそこでようやく顔を上げた。涙でその顔はぐしゃぐしゃだったけれど、それでも可愛い子だと思ったのは、幼心によく覚えている。


「うん……」


 涙に濡れた声で、女の子が言う。これで彼女が泣いている理由は分かった。でも、それは理由が分かったと言うだけで、事態が解決したわけではない。


「待ってろ」


 だから、そう言って立ち上がった俺に策なんて何一つ持ち合わせていなかった。でも、そうしなければいけない気がした。とりあえず食材でパンパンになった買い物袋を女の子の隣に置き去りにして、公園を後にする。

 割れた髪飾りを握りしめたまま、夕焼けに染まった町を走る。そうすれば上手い解決策が見つかると思ったから。


 それでもそんなものは見つからなくて。空もいつのまにか朱色よりも紺色が目立つようになってきて。

 そんなとき偶然見かけたのは、雑草に紛れて咲く一輪のたんぽぽの花だった。それは綺麗とは言い難かったけれど、目を引いた。


 手に握っていたそれと見比べる。花であるということしか共通点は見いだせなかったけれど、気が付けば俺はたんぽぽの花を茎からちぎって、彼女が泣いている公園へ走っていた。

 公園にいる彼女は先ほどと比べれば落ち着いたけれども、まだぐずぐずと泣いていた。


「これ」


 彼女が、差し出したそれを見る。


「髪飾り、直せなかった、ごめん。でも、代わりってほどじゃないけど……」


 徐々に尻すぼみになる声。声に出してようやく、彼女の求めているものがこれじゃないと脳が理解した。

 それでも、女の子の顔は暗くてよく見えなかったけれど、ふふっと、ぎこちなくだったが笑ってくれたのは分かった。それだけでなんだか救われたような気がして表情が緩みかけたが、俺はなぜかそれを我慢したんだ。どうしてだかはもう忘れてしまったけれど、我慢したことだけはなぜかよーく覚えている。


「ありがとう」


 だから、そう彼女に言われたとき、なんだか急に恥ずかしくなって俺は買い物袋をひっつかんで走り出した。その時が暗くて良かったと思った。こんな顔を見られたら生きていけないような気がしたから。

 それから数時間経って、その女の子の名前を知ることになった。

 まだ少し泣き腫らした目で、笑いながら。


「氷川和泉です」


 女の子は、そう名乗ったのだった。

 ようやく、思い出せた。


「そうだ……。だから黄色の……」


 和泉が俺にニット帽を選ばせたとき、俺が黄色を選んで喜んだ理由。

 そして、俺が「和泉って黄色好きだっけか?」と尋ねたとき、「好きっていうか思い出があるの」と答えたわけ。

 それが間違いじゃなければ。勘違いじゃなければ。

 ようやく頭の中でごろごろと転がっていただけだったパズルが、音を立ててしっかりとかみ合った。


 ごめんなと、口の中で呟く。

 それは手折った花へ向けてなのか、それとも和泉に対するものなのか。いや、きっとこれはその両方へのもの。


 手の中にある一輪の花は、黄色という共通点しか見いだせない。桜の花でも、タンポポの花でもない。それを潰れてしまわないように、慎重に制服の胸ポケットにしまう。

 俺はよっこらせと立ち上がり、正面を見据える。うん、実に噴水が邪魔である。

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