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第47話

 張遼や信忠らも連戦の疲れが蓄積しているのだが、曹操が苦しい素振りを見せないことに合わせて、明るい表情を見せていた。


 信玄陣営が戦闘準備が整った頃と時を同じくして、曹操方も臨戦態勢が整った。


 双方ともに今回の合戦最後の激戦となるのが想像できるためか、なかなか動きを見せずに睨み合いが続く。


 それでも曹操と郭嘉、信玄と幸隆の頭脳は、考え得る全ての展開に対応できるよう最大限に回転していた。


 その緊迫感を察知したのか、全将兵が緊張感に包まれ、無駄口を叩く者は一人としていない。


 普段は自由に空を飛び、自由に鳴き回る鳥も今は僅かな鳴き声も漏らさず、軍馬でさえ嘶くことをしない。


 呼吸の音ですら敵陣に聞こえそうなくらいに静まり返った戦場は、この先何が起こるかわからない恐怖心を兵に植え付ける。


 そんな中を一人の騎馬武者が細い土煙を上げ、必死の形相で信玄隊に向かって駆け込んだ。


「御屋形様!御屋形!一大事ゆえ、至急本陣へお戻りくだされ!」


「本陣へだと?この戦の趨勢が決しようとしている今、本陣へ戻らねばならぬ用とはなんじゃ!」


 信玄が汗だくで息も絶え絶えな騎馬武者をどなり散らした。


 騎馬武者は信玄の小姓が持ってきた水を一気に飲み干し、袖で口を拭う。


「大きな声では言えませぬ。お耳をお借りして宜しいでしょうか?」


 騎馬武者は平伏し、信玄の側に寄ることを願い出る。


「良かろう」


 信玄の許しが出る。


 騎馬武者は他意のないことを示すため腰の刀を荒々しく小姓に投げ渡し、上半身の甲冑を脱ぎ捨てた。


「失礼致す」


 騎馬武者が信玄の耳元に寄り、手をあてて声が漏れないよう注意を払うと、ぼそぼそと話しだした。


 話が進むにつれ、信玄の顔色がみるみる赤黒く染まっていく。


 その形相は怒り狂う鬼神の如く。


 額には血管が浮き出、目は血走り、強く噛み締めたために唇からは血が滴っている。


「全軍本陣へ退く!昌景と昌信を殿隊とする」


 信玄の決断は早かった。信頼する信龍のもたらした情報に疑いもしない。


 緊急で召集された武田の武将たちは一様に驚いた。


 突然の帰還命令もそうだが、信玄の形相が今まで見たこともないくらいの鬼面であったからだ。


 将からは当然不満が漏れ聞こえ、何が何だかわからないことに場はざわめいた。


「詳しいことは帰陣し次第話す。今はとにかく急いでくれ」


 信玄がここまで慌てるのもまた例をみない。


 昌景と昌信の部隊を除く将兵は、訝しみながらも信玄の命令を無視できず帰陣準備に取りかかり、順を追って退却し始めた。



 これには当然曹操たちも怪しんだ。


 戦局は信玄が優勢に運んでいたはずなのに退却していくことが理解できなかった。


 この頃には鮮卑軍の敗退敗走も伝え聞こえ、本陣陥落の危機もない。


 曹操は即刻追撃部隊を組織しようとしたが、援軍の到着を待つよう多くの将に促され、皆の意見に従った。


 これにより曹操と信玄の激戦は一時幕を閉じた。

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