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第62話

 急に湧き上がってきた父親への嫌悪感。それは父がまだ母のことを想い続けていると信じていた莉緒には、ある種の裏切りのように感じてしまったからだろう。胸のどこかものすごく奥深いところがキュッと小さく痛む。


――お父さんだって、いつまでも一人身じゃ寂しいもんね……


 経済力や甲斐性という面では問題だらけな父親だけれど、顔と愛想はそれなりに良い。それに、母が家を出てから随分経つ。和史だって新しい出会いを望むこともあるだろう。この先もずっと莉緒が家にいるとは限らないのだから。そう頭では分かっているつもりだったけれど、複雑な心境であることは間違いない。


 莉緒はふぅっと大きく息を吐いて気持ちを落ち着けてから、自宅の玄関戸に手を掛ける。カラカラと軽い音を立てて戸を横に引くと、奥からミヤビの賑やかな声が家中に響いていた。普段よりも高いトーンの上機嫌な声色は、誰か客人でも来ているのだろう。玄関のたたきには黒色のローヒールパンプスが揃えられている。

 莉緒はそっと足音を立てないよう廊下を通って自分の部屋へと入った。猫又と客は座敷ではなく居間にいるみたいだから、依頼人とかではなさそうだ。きっとご近所の奥さんとお茶でもしてるんだろう。


 ミヤビに負けじと賑やかに話している声には耳に覚えがある。つい先日もどこかで聞いたようなと莉緒は首を傾げた。ミヤビとは話が合うのか、快活な笑い声は莉緒が部屋の戸を閉めても届いていた。

 しばらく経った後、客人を玄関先まで見送ってからミヤビが莉緒の部屋の戸を開けて顔を出す。


「おかえりー。今さっき、久我さんとこの奥さんがケーキを持って来てくれはったよ。お茶淹れるから、食べにおいで」

「え、お客さんって詩織のお母さんだったの⁉」

「こないだのお礼やって言ってはったけど、何かあったん?」

「ええっと、なんだったっけなぁ……」


 どう考えても先日の塗仏を退治した件だろう。一緒に付いて来てもらったムサシには事情を説明してはいたが、あの日はミヤビには単なるお泊り会だと伝えただけで出掛けてしまっていた。まさかファストフードのセットだけで依頼を受けたなんて言えば、「もっと商売っ気をださなアカン!」と怒られるに決まっている。


 でも、詩織はあの晩に何があったかを後になって家族に話したみたいで、今日は改めて母親がお礼を持ってきてくれたらしい。法力のある父親には本堂で起こったことを誤魔化せなかったというのは詩織からも聞いていたけれど、わざわざ家を訪ねてくれるなんて思ってもみず、正直少し驚いた。多分、久我家のこういう律儀なところが檀家さん達に慕われているんだろう。

 住職の退院もあり、バタバタしたせいで遅くなってしまってと恐縮して言われても、ミヤビは何のことか分からなかったが愛想笑いで適当に話しを合わせてくれたみたいだった。


「まあ、何かは分からんけど別にいいわ。あんまり無茶しんときや」


 詩織の母親がどんな風に言ってくれたのかは分からないが、ミヤビは特に怒ってもいなさそうだ。祓い屋稼業を続けていくには神仏との関わりは無視できない。よいコネが出来たとでも考えているのかもしれない。


 ミヤビに呼ばれてダイニングへ行くと、テーブルの上には詩織の母が持って来てくれたというケーキの入った白色の箱があった。箱の側面にプリントされている店名は、寺の本堂でお泊り会をした時に出して貰ったシュークリームと同じ店のもの。詩織から聞いたことは無かったが、久我家の御用達なのかもしれない。

 箱の中を覗くと六つのケーキ。フルーツケーキやミルフィーユ、チョコレートケーキなど、全部違う種類が並んでいた。クリームの甘い香りに自然と頬が緩む。甘い物は正義だ。話を聞くと、これ以外にも仏壇へ大きな菓子折りのお供えまでしてくれたらしい。


「本来なら謝礼を包むべきやけど、娘達の関係もあるやろうからって、かなり気を使ってくれはったみたいやね。ま、うちは別に現金でもろても良かったんやけどなぁ……。夕飯が食べられんくなるし、今は一つだけにしときや」

「お父さんは甘いのはあんまりだけど、ムサシは?」


 居間の座布団の上で腹毛を見せて休んでいた妖狐は、甘い物は結構とばかりに首をフルフルと横に振っていた。一人三個も食べられるだろうかとミヤビと顔を見合わせる。いくら正義だろうが、さすがにケーキ三個には罪悪感を覚えてしまう。


「あ、河童達ってケーキ食べるかな?」

「そやな、果物が乗ってるのとかなら喜ぶんちゃうか。後でお裾分けしに行ってくるわ」


 居候中の河童達の存在で後ろめたさが消え失せたところで、莉緒はミヤビが淹れてくれた紅茶を口に含む。少し苦味を感じる濃い目の紅茶の後、クリームたっぷりのショートケーキを頬張ると、今日一日の疲労感の何割かが吹っ飛んだ気分になる。きっと久しぶりに受けた再テストで脳内が糖分を欲していたのかもしれない。否、それよりもタコ焼き屋で父親のニヤケ顔を目撃したことの方が精神的なダメージは大きかった。

 とにもかくにも詩織の母親のおかげで、モヤモヤしていた気分は少し落ち着いてきた。大きめにフォークで切り分け、もう一口を口の中へ放り込む。柔らかなスポンジが口の中で解けるように消えていった。


 アルバイトの梯子をしていた和史が藤倉の屋敷へと戻ってきたのは、莉緒がちょうど夕食を食べ終わった頃だった。ミヤビと分担して洗い物をしていると、ビニール袋を手に持って台所へと父が顔を出す。


「ただいま。余ったタコ焼きを貰って来たんだけど、食べるかい?」


 和史がダイニングテーブルの上へおもむろに置いた袋からは香ばしいソースの香りが漂っていた。さすがに莉緒はもう無理と首を横に振ったが、居間で聞いていたムサシがゆっくりと立ち上がるのが視界の隅に見えた。

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