「お父さん、今日はどこでアルバイト?」
朝食を食べようと台所へ顔を出した和史は、トーストにジャムを塗りつけながら莉緒が聞いてくるのを「おや?」と意外そうな表情になる。年頃になった娘が父親の予定を気にしてくることなんて、最近では滅多になくなっていた。どういった心境の変化かと口元が綻ぶ。
「今日かー、花屋の開店準備を手伝った後、またユリさんのところでタコ焼きの焼き方を教える約束をしているよ」
「ふーん……」
自分から聞いた割に、莉緒は興味なさげな反応を返す。心の中では「今日もやっぱり女の人の店ばかり行くんだ」という冷ややかな感情が湧き出ていたが、表情には出さないよう大きな口を開けてトーストに齧り付いた。裏の宮下のお婆ちゃんから貰った蜜柑で作ったというジャムは、市販のものよりも甘さ控えめだ。いつもは美味しいと思っていたはずなのに、今日はなんだか物足りなくてホットミルクで残りを無理やり流し込む。
娘の無反応に少し寂し気な表情を見せた和史だったが、「今度、友達と食べにおいで」と声を掛けた後に莉緒が黙って頷いたのを見て、嬉しそうにしていた。
その日の学校帰りにも商店街を抜けて行こうとした莉緒は、手前の駅前ロータリーに救急車とパトカーが一台ずつ停車しているのに気が付く。さらに、アーケードの手前には中型の消防車が二台停まっていた。商店街の中で火事でも起こったんだろうか? 古い木造の建物のまま密集して営業している店ばかりだから、どこかで火が上がれば大変なことになる。
普段と変わらず人通りもまばらなアーケード内。人だかりが出来ている店はすぐに判った。あの若くてキレイな未亡人のいる花屋を取り囲むようにして野次馬が集まっている。店主は申し訳ないと何度も周囲の人達に向けて頭を下げつつ、通報を受けて駆け付けてくれた消防士達に事情説明しているみたいだった。
「仏壇の蝋燭が出火原因だってさ。目を離してる時に風で倒れでもしたんだろうねぇ」
「ご主人が亡くなって、もう五年だって。可哀そうにねぇ」
すれ違ったおばさん達が噂話をしているのが聞こえて、莉緒は一瞬で状況を把握する。マダム達は口元に手を当ててヒソヒソ話をしているつもりだったかもしれないが、元の声が大きいから丸聞こえだ。
――そう言えば、お父さん、今日は花屋さんにも行くって言ってた……
父が手伝いに来ているタイミングだったらと心配になり、莉緒は人だかりを掻き分けて花屋の店先へと向かう。もし父が怪我でもしていたらと思うと気が気じゃない。ここぞという時にポンコツぶりを発揮してしまうのが藤倉和史という男なのだから。
「こら、何でもすぐに首を突っ込まない!」
後ろから声がして、莉緒は通学鞄を持っていた腕を誰かにぐっと掴まれた。ビックリして振り返ると、苦笑を漏らした和史の顔。昨日と同じ黒色のエプロンを着けているところを見ると、今はタコ焼き屋のアルバイト中だったみたいだ。
「……お父さん、今はタコ焼き屋さんの方だったんだね」
「ああ。花屋さんが大変だっていうから、ちょっと抜け出してきたら、娘が野次馬になってたし驚いたよ」
「だって今日はお父さんが花屋にも行くって言ってたから……」
父親が心配で覗いていたと言われて、和史はちょっと照れたような笑みを浮かべる。
「開店前に力仕事をちょっと手伝いに来ただけだよ。――しかし、ボヤで済んで良かったよ。ここで火事騒ぎにでもなったら、近所への延焼は免れないだろうからな」
人だかりから莉緒を引っ張り出した和史は、野次馬の向こうに見える花屋の看板に目をやって、困惑した表情になる。莉緒も父に釣られてそちらへと視線を送り、ハッと身体を硬直させた。
「……あれって、何⁉」
莉緒は視線はそのままに、父に向かって訊ねる。一階が店舗になっている木造の建物の二階は確か、店主の住居になっていたはずだが……
二階の窓の隙間からジワジワと漏れ出ている、どす黒い色のモヤ。以前、灰崎が仕掛けた逆文字のお札によって自宅に集まってきたものにとてもよく似ている。行き場のない思いと恨み、負の感情の集合体。それが二階の角部屋から発生しているように見える。昨日まではあんなものは無かったのにと、莉緒は目を見張った。
「うん、お父さんも気になって見張るようにしてたんだけど、今日のボヤ騒ぎの原因はきっとあれだろうな」
「あれって、怨霊……? っていうか、お父さんずっと気付いてたの?」
「花屋の奥さんから相談を受けててね。最近、妙な視線を感じたり物音が聞こえることがあるっていうから、しばらく様子を見に来ていた。……さて、どうしたものだろうなぁ」
和史は人だかりの向こうで、青褪めた顔の店主の隣にいる一人の男性へと目をやり、考え込むように自分の顎をぽりぽりと掻いていた。莉緒も背伸びして店前の様子を伺うと、スーツ姿にビジネスバッグを手にした三十代に見える男性客が若い女店主に対して目線を合わせるように腰をかがめて、心配気に話し掛けているのが見えた。
「あの男の人は?」
「ああ。最近よく店に来るお客さんだね。花というより彼女が目当てって感じの男だ」
営業先への手土産と言っては一輪ずつ買っていくのだと、和史はそのマメさに感心した口調で言う。