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第65話

 莉緒が花屋のガラス戸を通り抜けようとした時、周辺の空気がビリッと震えるのを感じた。ハッと天井を見上げて、その気配を探る。バリンというまるでガラスが割れるような音が耳の中に響いてくる。けれどそれは物理的に何かが破壊したのではなく、視えない壁がぶち破られた衝撃音。まるで抑圧されていた力が弾け飛ぶような。


「……二階⁉」


 確認するよう和史の方を振り返ると、眉を寄せて表情を曇らせていた。ムサシも起き上がって上を見上げている。一方、店主の弥生は何も感じていないらしく、カウンターで注文品のアレンジメントの仕上げをしていた。

 あんなに派手な音がしたのに店主が気にしていないということは、つまり――普通の人には聞こえない物音だったということだ。


「弥生さん、ちょっと二階へ上がらせてもらっていいかな?」

「……えっ?」

「今、何かが上で動き始めたみたいでね」

「あ、えっと……」


 閉店後に住居スペースである二階へ異性である和史を入れることに、弥生は少し躊躇っているようだった。特に今日はボヤ騒ぎまで起きているから、変な噂を立てられたらと近所の目を気にしているのだろう。ちらちらと奥のドアに視線を送りながら、困惑している。


「じゃあ、私も行きます。お父さんだけだと、いろいろ心配だと思うんで」

「こら、莉緒。心配って何だ⁉」

「もうっ、デリカシーが無いんだから……独身女性の家なんだよ」


 莉緒の言葉にようやく気付いたらしい和史が、「あっ!」とやっと気付いた顔をする。女性のお店ばかりへ顔を出している割にそういうところが鈍いのは何ともいただけない。

 弥生も莉緒からの提案に「それじゃあ、お嬢さんも一緒なら……」と納得してくれたようで、二階へ続く奥のドアへと案内してくれる。


「あの、原因はやっぱり……?」


 スタッフオンリーのプレートを貼ったドアが開かれると、幅の狭い急な階段が現れた。住居の玄関は建物の裏側にあるみたいだけれど、店舗とはこの階段を使って行き来しているらしい。階段を先に上がっていた弥生が、不安そうな顔をして振り返りながら聞いて来た。それには和史は黙って頷き返すだけに留める。


「そう、なんですね……」


 前を向き直した弥生は辛そうに声を震わせていた。莉緒のところからはよく見えなかったが、もしかしたら泣いているのかもしれないと思った。


 階段を上がりきると、廊下を挟んで左側にリビングとキッチン、右側に並んだドアと襖はそれぞれ寝室と仏間だと説明を受ける。弥生は何も言わず、仏間へ続く襖を開いて、昼間のボヤ騒動の跡を二人へと見せた。消火しきれず燻ぶったまま倒れたという蝋燭は仏壇の一部を焦がす程度で済んだみたいだったが、周辺にはまだ消火剤を撒いた後が残っていた。


 焦げた匂いが薄っすらと漂う和室の広さは六畳ほど。部屋の隅に置かれた小さな仏壇の中には莉緒もよく知っている男性が満面の笑みを浮かべた遺影が飾られている。幼い頃からしょっちゅう藤倉の家にも来ることがあった故人、手塚祐司は和史にとって幼馴染でもある。


「本当のことを言うと、今日は私、蝋燭に火を点けた覚えはないんです……」


 弥生が困惑した表情で仏壇を眺めながら、ぽつりと漏らす。駆け付けた消防隊にも同じことを伝えたが、全く信じては貰えなかったのだと言う。


「うちも蝋燭なんて法事の時くらいしか点けないよ。普段は燭台に乗せてるだけだからね」

「そうなんです。一人では管理しきれないから、線香も飾ってるようなもので……」

「まあ、だからこそ、あいつを疑わざるを得ないんだけどさ」


 和史は仏壇の遺影をちらりと眺めて、寂しそうな顔をする。もう五回忌を終えたはずなのに、この部屋に充満している負の気配。黒色のモヤは仏壇の中から染み出ていた。


「祐司にとって弥生さんは自慢の奥さんだったからね。若い嫁が羨ましいだろうって、どれだけマウントを取られたことか……」


 モヤが漂う部屋の中を見回して、和史はふっと呆れるように鼻で笑う。


「でも、さすがにこれは往生際が悪すぎるだろう。早くに死んだ、お前が悪い」


 和史の煽り言葉に、仏壇の中にあった位牌がガタガタと音を立てて震え始める。その振動でバタンと倒れた遺影が畳の上へ落下した。さすがにその動きは弥生の目にも見えたはずで、驚きと恐怖で息を飲み、身体を硬直させている。


「お父さん?」

「弥生さんは店に戻って。莉緒はムサシから離れるな」


 無言でコクコクと頷いてから、弥生は慌てるように仏間から飛び出していった。莉緒はムサシの傍で紙人形を構える。部屋全体のモヤがさらに濃くなったように感じて仏壇に視線を送ると、そこから溢れ出ている気配の冷たさに背筋がぞくりと凍りつく。

 ずっと黙り込んでいたムサシが、呆れ笑いながら口を開く。


「……これは厄介だな。ここまで来ると、浄化はできまい」


 どうやら、先程の和史の言葉が何かを余計に挑発してしまったみたいだ。何かの負の感情が周辺に漂うものを呼び寄せ、急激にその体積を増加させていく。徐々に悪くなる視界。


「お父さん、これって手塚さんなの?」

「ああ。あいつの異常な執念が怨霊化したものだろう。いや、とっくにもう祐司でも何でもなくなってるだろうけれど……」


 和史は除霊用のお札を手に持ち、モヤの中に紛れ込んでいるその本体を突き止めようと目を細めていた。その横顔がとても辛そうに見えるのは、かつての友を自分の手で祓うことに躊躇いを感じているからだろうか。

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