デカい熊の顔がプリントされたエプロンを着けた舞楽。
裾やポケットにレースが施されたような、白いエプロンじゃなくて良かった。
…理由は、煩悩を呼び起こすから。
目を覚ましたら舞楽がいなくて…自分でも驚くほど動揺した。
まず思ったのは「逃げられた」
そんなわけないのに。
マンションから逃げても、出勤してくるのは俺の執務室だ。
しかも俺に張り付いて仕事をするのが彼女の役割となった今、そんな心配をするなんてどうかしてる。
それにしても…陸斗と相談して、舞楽を移動させてよかった。
成田をはじめとする秘書課の面々が大人しくなったのは、常務に問題が起きたことを示唆したからだ。
「秘書課に、傷害罪に値することを行った社員がいる」
常務は慌てて課長に調査を要求し、簡単に成田を突き止めた。
そこで常務から直々に話をされたようで、成田は顔色を変え、簡単に大人しくなったという。
舞楽は俺のそばに置くことにして、何かされる心配を100%なくした。
別に…特別な気持ちがあったからじゃない。偽装とはいえ婚約者として両親に紹介している以上、ある程度は守らなくてはいけないからだ。
「起きたとき姿が見えなくて慌てたのも、そういう気持ちからだ…」
独りごちて、タバコに火をつけようとすると、ふわっと風に舞うものが視界の隅に入った。
目をやって…慌ててそらし…もう一度視線を戻す。
…薄いピンク色の下着。
繊細なレースで双丘を包むであろう布の複雑な作り。そして、意外なほどに小さいショーツ…
「70D…?」
しばらく、風に舞うそれらを眺めた。俺のTシャツとバスタオルもある。…2まわりほど小さい白いTシャツも。
片手を心臓に当てて確かめてみると
…マズい。ドキドキしている。
俺は、30手前の大人のはずだが。
やがて甘い香りが漂ってきた。
クッキーとフレンチトーストが焼けたのだろうか。
俺の中で、クッキーとは買うもので、焼くものではない。
だから…不思議に思った。
…家庭的、とでも言うのだろうか。
…ベランダに呼びに来る前に…色っぽい洗濯物とは真逆の位置にそっと移動する。
そして、タバコを2口ほど吸った。
…あまり長く吸っていると、洗濯物にタバコの匂いを移してしまいそうでさっさと消す。
呼びに来ないので、部屋に戻ろうと歩き出し…俺はもう一度ピンク色のそれを目の隅にとらえた。
「…うまっ…」
フレンチトーストは絶品だった。
新鮮な野菜サラダと絶妙な火加減のベーコンエッグまで添えられている。
「よかった…!裕也専務、舌が肥えているでしょうから、ちょっと緊張して焦がしちゃいました…」
デカい熊が…いや、デカい熊がプリントされたエプロン姿の舞楽が、花が咲いたような笑顔を向けてくる。
一瞬、何も言えなくなる…
「さっき聖から連絡があって、お昼すぎに来るって言ってます。…よろしくお願いします」
「あぁ…そうでしたね」
その前に洗濯物を取り込むのだろうか。
「…君は?」
俺にだけ食べさせて、舞楽はキッチンで何やら立ち働いている。
「…自分のは、作り忘れちゃって…それにクッキーも焼きたいので」
「何も食べずにやってるんですか?料理も洗濯も…」
あ…洗濯物に気づいたことをうっかり言ってしまった、と動揺しつつ、
何か口に入れなさい…と続けようとした。
すると舞楽が慌てたように言う。
「洗濯物…!出ていたので、一緒に洗わせてもらっちゃいました。…さしでがましかったら、すみません」
「いや。家事をしてもらうなんて考えていなかったので、君の不利益になりませんか?」
「それは大丈夫です!せめて家事くらいさせていただきたいです」
正直、彼女に何の得があるのだろう、と思う。
仕事をしながら家事をして、負担以外のなにものでもない。
「良ければ、理由を教えてもらえますか?せめて家事くらいしたい、という理由は…?」
はい…と言って、舞楽は水道を止めた。
「すぐに暮らせるように、このマンションを整えてくれた会長夫妻を…結局は裏切ってしまうので。せめて裕也専務に快適に暮らしてもらうことが、ここにいる間に私ができる罪滅ぼしかと思うんです。それに…」
「…それに?」
「裕也専務に美味しい顔をさせてあげられたら…って思います。それから、ここでは気を抜いて、くつろいで欲しいとも思うんです。…だから」
粉だらけの手を背中の向こうに隠しながら、ソロリと俺のそばに来た舞楽。
…何を言うかと思えば…
「掃除も洗濯も料理も…私にやらせてください!…改めて、これから半年間、よろしくお願いします!」
勢いよく頭を下げるので、首の後ろまで見えた。
なんというか…くすぐったいような、温かい気持ちになる。
「…わかりました」
そっと頭をあげた舞楽の顔は、思った通り、赤い。
「では…まずはこれを食べてください。アーンして?」
フォークに刺したフレンチトーストを突き出すと、慌てて口を開ける舞楽。
「今度から、自分の分も作ること。そして一緒に食べること」
舞楽はフレンチトーストを口いっぱいに頬張りながら「ろーかいひまひた!」と笑って敬礼した。
その姿を見て、自分でもびっくりするくらい大きな声で笑って…同時に…声を上げて泣きたくなった。