聖と美波との顔合わせも終わり、ホッと一息の私だったが…忘れていた。
「指で!キーボードの位置を覚えなさい!…イチイチ下を向かない!視線はモニター!」
「…は、はい!」
星野さんの声は、ビシビシ音がするほど、鋭い。
仕事の合間を見て、ブラインドタッチの練習をする約束を守って、星野さんが指導してくれていた。
優しくて穏やか。大人で頼りになる秘書の鏡だと尊敬してきたけど…こんなに鬼になるなんて、聞いてない…!
ピピっとタイマーが鳴り、私は脱力したように腕を下ろし、背中を丸める…
「10分で…30文字?」
私の目の前のモニターを見て、その少なさにヘラリと笑われてしまう。
「ごめんなさい星野さんごめんなさい至らぬ後輩ごめんなさい…」
「よ、読み上げないでください…!」
なんでもいいから打てと言われて打った文字は、ついつい星野さんへの謝罪文になっていた。
「…裕也専務に報告ですね」
このブスな文章と文字数。星野さんがかえって面白いと言って笑い出した。
「…ずいぶん仲がいいですね?」
執務室でリモート会議をしていた裕也専務。
会議が白熱したのか、いつもより鋭い切れ長二重が私たちに突き刺さる。
「コーヒーをお願いします」
「片瀬さんが淹れた方が機嫌が直るから」と言われ、裕也専務の好きな絵柄のコーヒーを淹れて持っていった。
「ありがとう。…練習は、順調なんですか?」
「星野さんは、確実に裕也専務の親族なんだなぁって、実感してます…」
とても楽しそうに鬼指導をするところが…というのは黙っておく。
「…どういう意味です?」
「…いえ。えーっと…この後の予定を申し上げます」
上手に話を切り替えられたことにホッとしつつ、タブレットを読み上げた。
「15時より役員会議。そして17時には、沢田鉄工の担当者様がお見えになります」
「夜の予定は、今日は無しですね?」
「はい」
「よろしい。では帰りに、買い物をして帰りましょう」
18時半。予定の時間きっかりに沢田鉄工の担当者が帰って行った。
すでに星野さんは退勤していて、私は早井さんに専用車の手配を頼む。
裕也専務に促され、私も地下の駐車場へと向かう。
…買い物をして帰ると言ってたけど、何を買うんだろう。まさかスーパー?…裕也専務が?
専用車はマンションの最寄り駅近くで止まり、裕也専務はいつものように早井さんを労った。
「さぁ、行きましょうか」
ロングコートの裾を翻し、私の背中を軽く押した先には…駅に直結するスーパーマーケット。
本当に買い物に付き合ってくれるんだ…
好きな食べ物や苦手な食べ物を聞きながら買い物をするのは、とても楽しかった。
それによると裕也専務はお肉と貝、海老やカニも好きだとわかった。
「舞楽は?」
「え…?」
聖と美波に紹介してから、仕事を離れると名前で呼ばれることが多くて、その度に心臓が跳ねる。
片瀬さんって言いにくい…とは言ってたけど。なかなか慣れない。
「私は…好き嫌い無い方なんですけど…特に好きなのは、玉子焼きです」
「玉子焼き…そういえば前に連れて行った創作和食の店でも頼んでましたね」
覚えててくれたんだ。
…ちょっとくすぐったい。
「母が…亡くなる前日まで、お弁当に玉子焼きを入れてくれてたんです。大学生になったんだから、お弁当くらい自分で作るって言ったのに…今だけしかやってやれないからって…」
「玉子焼きに、そんな思い出があったんですか…」
「はい。そして本当に、その時が最後の玉子焼きになってしまって…」
カートを押す自分の手の甲に、涙がポツンと落ちてきた。
両親との思い出話をすると、無意識に、涙が溢れることがある。
…前に、裕也専務に服を買ってもらった時に、父を思い出した時もそうだった。
「…すいません…」
笑って誤魔化しながらハンカチを取り出すと、裕也専務が私の頭に手を置いて、カートを押すのを代わってくれた。
「まだまだ、悲しみは癒えていない…」
無理するな…と、優しい声が耳元をかすめた。
買ってきた食材で夕食を作った。
裕也専務の希望で、和食。
お風呂から出てデザートを出すと、とても驚かれて私も驚いた。
「…たいしたことないです…100%ジュースをゼリーにしただけ…」
「でも生クリームとかミントの葉とか」
「あ…気づいてないですか?ベランダが広いことがわかったので、ちょっとだけ家庭菜園をしてます。…このミントもそれです」
「…へぇ…」
夜のニュースをざっと見て、私は先に寝室に行くことにする。
おやすみなさいと告げると、部屋の明かりを消して、裕也専務も同じタイミングでベットに入った。
足元をほのかに照らすフットライトを除き、枕元のライトが消される。
横にいる裕也専務のシルエットは確認できた。
「…泣きたい時は、泣きなさい」
裕也専務の優しい声。
さっきスーパーで泣いてしまったことを言われているのがわかる。
「…もう2年もたつのに、強くなれない自分が悔しいです」
両親の死は受け入れていると思う。
それでも思い出がよみがえると、我慢できずに涙が出ることがあって…私はそれを、自分の弱さだと思っていた。
不意に私の方を向いた裕也専務。
「両親を亡くして天涯孤独になったのに、強くなるなんて不可能」
自然に手が伸びてきて、私の肩のあたりを抱き寄せた。
自分以外の温もりがあることがこんなに心強いと思ったことはなくて。私も、仰向けだった体を素直に横に向け、引き寄せられるまま近づいた。
腕を腰のあたりに回したのは、無意識だったかもしれない。
胸元が頬に触れ、聞こえてくる規則的な鼓動は、私にこれ以上ない安心感を与える。
ふと…裕也専務が体を離し…
…暗がりの中でもわかった。
唇が、そっと近づいてきたことに。