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2章…第30話

触れるだけのキスは、1度で終わらなかった。


柔らかくて温かくて…背中に回された手のひらの熱と合わさって、感じたことのない思いが胸を駆け巡る。


…そんな思いをどう表したらいいかわからない。私はただ…されるがままになっていたと思う。


心に淡い火が灯った気がした。

この火は、あとでちゃんと消すことができるのか…



「…怒らないんですか?」


「…」


「…ん?すでに怒ってる?」


「いえ…そんな」


大きな手が、背中から移動して後頭部をなでる…



「初めて…だった?」


抱き寄せられ、頭の上で声がする。

聞かれてるのはキスの経験…?



「いえ…昔、聖に…」


「…聖?」


撫でていた手がピタリと止まる。



「ちょっと唇が触れてしまったことがあったんです。事故…っていうか、たまたま、みたいな?私は聖にファーストキスを奪われたって、何回も責めてやったんですけど!」


「…」


少し体を離されて、頭の上にあるはずの裕也専務の顔が降りてきた気がした。


あきらかに…さっきとは違うキス。

指で顎を引かれ、唇が開く。

熱い舌が唇の内側に届いて、意志を持って舌を、歯列を、撫でていくのがわかる…


…角度を変えて繰り返すキス。

裕也専務の唇の形をハッキリ感じて…心臓が壊れそうなほどドキドキして…


ずっと私の頬や後頭部を撫でていた大きな手が、一瞬その動きを止めて、私の舌を絡め取っていた熱い舌がソロソロと離れた。


ピッタリ唇を密着させるキスが、やがてついばむキスに変わり、終わりを告げる…


唇を離されたのに、私は少し上を向いたまま…動けない



「…なんて顔してるんですか?」


言われて目を開けると、薄闇の中で、さっきより目が慣れてハッキリ見える裕也専務の顔。



「…だって…」


…あんなキス、初めてだったから。



「深いキスは…初めてだった?」


満足そうに私を見下ろす裕也専務。

…もしかして、初めてのキスじゃないって言ったから…こんな深いキスをしたの?



「か、からかわらないでください」


立っていたら絶対腰が抜けて、自力で立っていられなくなるレベル…



「け、契約は?…好きになっちゃいけないとか…あと、違約金とか…」


突然のハグとキスに、頭がぐるぐるして、感情の整理ができない。



「もう…眠れなくなったら明日、どうするんですか…」


私はとっさに起き上がってベッドを出た。

顔でも洗って火照る頬を冷やしたい…のぼせた頭も冷やしたい。


ドキドキする心臓もどうにかしたい…


偽装婚約者だって言ってたのに…好きになったらいけないって言ってたのに…無理だよ。単純だもん…私、あんなキスされたら、好きになっちゃう…


水でバシャバシャ顔を洗ってベッドに戻る。

髪まで濡らしてること…わかってたみたいに、裕也専務はタオルを手に待っていてくれた。


枕元のライトがついてる…


「消してください…」


私は自分のTシャツの裾をぎゅっと掴んで、情けない声で言った。


明るいところで見られたら、蕩けそうなくせに必死に踏ん張ろうとしてる、複雑な表情がバレる。


そんな自分を、見せたくなかった。



「おいで…」


半泣きの私に比べて、裕也専務は余裕。


手首を引かれてベッドに入ると、丁寧に濡れた部分の髪を拭いてくれた。気づけば、さっき裕也専務が寝ていた位置。



「練習…」


「え…」


「近いうち、両親がここへ来たいって言ってたので…少しでも婚約者らしくしようと思いまして」


…枕元の明かりはもう消されていて、裕也専務の表情は見えない。



「…寂しいときは、俺を抱き枕にしたらいいです」


毛布の中で手を繋がれ…横たわる枕から、裕也専務の香りがする。その温もりと香りを頼りに、私の瞼は呆気なく落ちていった。




…翌朝目が覚めると、裕也専務に抱きしめられていて、目線のすぐ上に立体的な唇が見えた。

毛布の中で足も絡みついていて…って、ちょっとこれ、どういう状況?


ドキドキするけど…抱きしめられるのは嫌じゃないって、はっきりわかる。


裕也専務の方は、私なんかそれこそ抱き枕で、偽装婚約の作戦を成功させるための手段でしかないのかもしれないけど。


それでも…意識がはっきりするにつれ、この状況を少し恥ずかしく思う自分が目を覚ます。


そっと腕を解き、仰向けになろうとした。…すると、とんでもないことに気づく。


私…ベッドの縁、ギリギリで寝てる!?

なんとなく背中側が心許ない…


もぞもぞ動いたことで、裕也専務も目を覚ましたらしい。

切れ長二重が、至近距離で私を見つめ、ダルそうに言う。



「転がりすぎだろ…」


「…え?」


抱きしめられてて「転がりすぎ」って、どういう指摘なんだろう…?!



「あんまり転がるから、抱きしめた」


「…え、ちょっと…あの」


言いながら、腕を開くんじゃなくて閉めるってなに…

必然的に、私と裕也専務の距離はゼロ…。



………………


「…腕が痛いですね」


スーツに着替え、ネクタイを締めながらブツブツ言う裕也専務。


私はしっかり裕也専務に視線を送り、笑って言った。



「…本当に私が転がったんですかぁ?もしかして、裕也専務がグイグイ迫って来たせいだったりして!」


「…あん?」



…ハッキリ言って。


昨日のキスを思い出すと…頭と口から火を吹いてしまうほど恥ずかしい。


動揺しまくってオロオロして半泣きになって…とても目なんか見れないし、そばにも寄れなくなる…


だから、さっき歯を磨きながら考えた。


裕也専務が私にキスをしたのは、偽装婚約の件を成功させるために他ならず、何がしかの気持ちを持ってしたことではない…と。


実際、近く会長夫妻が訪ねてくるから…って言ってたし、そのために少し婚約者らしい雰囲気をまとっておこうと。


そういう考えのもと、行ったキスだったと思うことにした。


だから、深刻に考えるのをやめた。


…やめないと仕事にならない。

何しろ私は、裕也専務の専属秘書。

ほぼ24時間一緒にいなければならないのだから。




それからはもう開き直って、ベッドに入ったら、自分からチュッとキスをして、逆に抱き枕にして眠ることにした。


これで、裕也専務の偽装婚約者として、それらしい雰囲気になるために協力してることになる。


キスは…頬だけど。

それが私の精一杯…


「おやすみ…」


裕也専務は毎回私に抱きつかれ…少し不思議な雰囲気をまとう。


でも別に何も言わないし、いつの間にか腕枕までしてくれるようになったから、問題ないと思っていた。



…あの日、知らない女性の写真を見つけるまでは。


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