アデル視点です。
――*――
二度目の風呂に浸かりながら、俺は激しい自己嫌悪に襲われていた。
レティに、冷たい態度を取ってしまった。本当は、そんな風に接するつもりなんてなかったのに。
「……はぁ」
あのとき。
ドラコは、俺の表情を見て、すぐに俺の気持ちを汲み取ってくれた。レティが「自分も行きたい」と言う前に、機先を制して頑なに同行を拒否し……俺は、レティに対して何の説明もせずに、それに便乗してしまった。
聡い彼女は不審がっていたが、俺には、このもやもやとした黒い気持ちをうまく噛み砕いて、伝えることができなかったのである。
だから――彼女と目を合わせるのが、怖かった。俺の狭量さが、欲深さが、醜さが、彼女に知られてしまうことが怖くて。それでレティに嫌な思いをさせてしまっていたら、元も子もないのに。
「……傷ついただろうな。俺を嫌いになっただろうか」
湯の中で、膝を抱えて額をつける。湯はすっかりぬるくなっていたが、温め直す気にもならなかった。
「精霊や妖精と、人間が共存する街……」
それは、レティにとって、理想郷とも言える場所だろう。一目見てしまったら、彼女は、そこに住みたいと思うに違いない。
なにせ、自らの異能力――精霊から授かった魔法の力によって苦しんできた彼女を、あっさりと受け入れてくれ得る街なのだ。
そこには、自分以外にも、魔法の力を持った人間がたくさんいる。虐げられることも、気味悪がられることもない。『聖夜の街』ならば、同じ人間の友も、たくさんできるだろう。そして、俺などよりずっと彼女に相応しい、恋人も――。
「……っ」
――楚々とした
細く柔らかな銀髪に指を通し梳くと、レティは可憐に頬を染め、つぶらな瞳を甘く細める。
そうして幸せそうに微笑むレティの肩を抱き寄り添う、見知らぬ男――。
「くそっ」
想像してしまい、俺は思いきり顔を歪めた。胸が張り裂けそうに苦しい。
だが、俺にレティを引き留める権利などないのだ。森に滞在するのも、出て行くのも、彼女の自由。
それに、人間の街で暮らす方が、レティにとっては、ずっと良いことだ。それは間違いない。
わかってはいる。わかってはいるのだ。
けれど、失うのが怖い。
それに、レティの気持ちが変わらなかったとしても、もしも彼女の身に何か危険が迫ったとしたら?
俺の力が及ぶ範囲は、この森の中だけだ。もしレティが森の外で助けを求めるような事態になったとしても、俺は彼女のもとに駆けつけてやることすらできない。
俺の手の届かないところで、彼女が傷つき、苦しみ、取り返しの付かない事態にでもなったりしたら……俺は後悔してもし切れないだろう。
「はぁ。俺は何様のつもりだ」
俺は彼女を愛している。この身を焦がす激情が、ただの友や家族に対する親愛ではなく、確かに恋慕なのだと断言できる。けれど、レティは――。
俺は頭を振って、次々と湧いてくる嫌な考えを振り払う。
「……よし」
風呂から出たら、とにかく、レティにもう一度謝罪しよう。
俺は気持ちを切り替えて、湯から上がったのだった。
*
キッチンに入ると、スパイスを炒める香ばしい匂いが漂ってきた。
ターメリック、クミン、コリアンダー、ローレルなど……いずれも恵みの森で採れたものだが、レティが持ち帰って加工を施すまで、俺は調理したことも、食べようと思ったこともなかったものだ。
「手伝おうか?」
「あ、アデル……ありがとう。でも、今日はドワーフさんのコンロで調理を始めちゃったから、大丈夫よ。座ってて」
「……わかった。なら、茶ぐらいは俺が用意しよう」
「うん。ありがとう」
料理を用意するレティは、一見、普段通りだ。しかし、俺と目を合わせてくれない。いつもなら、調理に集中していても、俺が入ってくると一度は必ずこちらを見てくれるのに。
だが――それも当然だ。彼女は、俺に対して怒っているのだろう。
俺は気付かれないように小さくため息をついて、ティーセットの用意を始めたのだった。
茶を淹れてテーブルの用意を済ませると、レティの調理もちょうど終わったようだ。
「お待たせ。今日は、カレースープと、ミモザ風サラダよ」
そう言ってレティがテーブルに運んできたのは、茶色くスパイシーな香りのスープだった。じゃがいも、ブロッコリー、人参などの具材が入っている。
「あのスパイスの味付けは、カレーというのか」
「うん。カレー粉の配合はあんまり詳しくないから、基本的なものしか入れてないけど。じっくり研究したら、楽しそうね」
そこでようやく彼女と目が合うが、すぐに逸らされてしまった。
目の前で湯気を立てるスープからは、今までに嗅いだことのない、
サラダの方は、すでにテーブルに置かれていた。ミモザの花のように、細かな卵の黄身が緑の葉の上に散らされている、春のようなサラダだ。
「ミモザサラダも、本当はベーコンかハム、それにチーズがあれば良かったのだけど……その代わり、卵そぼろをたくさん乗せておいたわ」
「花畑のような美しいサラダだな」
「ありがとう。パンはレストランで出すはずだった分の残りで、申し訳ないんだけど。どうぞ、召し上がれ」
レティは、目を伏せながら小皿を配り、そう告げる。
「……いただきます」
「いただきます」
食前に「いただきます」、食後には「ごちそうさま」いう挨拶が、我が家では採用されている。
俺はこの挨拶を聞いたことがなかったのだが、以前、レティが言っていたのを見て、取り入れることにしたのだ。
なんでも、自然の恵みや調理した人に対する感謝が込められた挨拶で、レティが以前いたところでは習慣になっていたものなのだそうだ。
スプーンを手に取り、カレースープを口に運ぶ。その瞬間、レティの視線が俺の目をしっかり捉えたのを見た。
彼女は、料理の感想が気になるようで、初めて出した料理のときには、必ず最初の一口を見守る癖があるのだ。
レティはわずかに視線を彷徨わせたが、彼女は今度こそ目を逸らさず、俺の目を見た。
頬が少し朱く染まっているのを見て、俺は、彼女の瞳に宿っている感情を悟る。それは、怒りとは異なるものだった。
俺の口元が、自然に綻ぶのを感じる。
「――旨い」
「……良かった……」
レティは、あからさまにホッとした様子で、頬を緩める。俺の心も、レティの反応を見て、あっという間に和らいだ。
「奥深く複雑な味わいだな。こんな料理、見たことも聞いたこともなかった。レティは天才だな」
「て、天才なんて、大袈裟よ。私は、たまたま知ってたレシピを再現しようとしてるだけで」
「それでも、君の知識の広さと料理の腕前は、誇っていいと思うぞ」
俺がレティを褒めると、彼女はすぐに視線を逸らしてさらに頬を染め、もじもじと照れはじめる。
本当に可愛らしい。今すぐにでも、抱きしめたい――そう思うが、今は食事中だ。
それに、彼女が怒っていないとわかったとはいえ、まだ俺は彼女に、きちんと納得のいく謝罪ができていない。謝るなら、今だろう。
俺は、意を決して、重い口を開いた。
「――レティ。その」
「――アデル、あのね」
俺が話を切り出したのと同時に、彼女も口を開き、俺たちは目を見合わせたのだった。