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第55話 はじめまして

 美しい黄緑色の針葉樹コニファーに囲まれた、レンガ造り2階建ての邸宅を前にした萌香は、その場に凍り付き微動だにする事が出来なかった。一昨日、昼に訪れた時も圧倒されたが、ライトアップされたその様子はさながら白亜の城だった。


「やはり、ここが課長のお家ですか?」

「そうです、正確には祖父の家になります」

「お祖父じい・・・さ・・ま」

「はい」


 萌香はゴクリと唾を呑み込んで、2階のバルコニーを仰ぎ見た。


「あぁ、あの窓が萌香さんの部屋です」

「あのバルコニーのある窓が、私の部屋ですか?」

「はい、気に入って頂けると良いのですが」


 萌香は、そのバルコニーから、日本海に沈む夕日を眺める自分の姿を想像する事が出来なかった。スーツケースの持ち手を握る手が汗ばみ、脚が震えた。


「さぁ、みんなが待っていますから、家に入りましょう」

「皆さんが・・・待って・・・いる」


 そこで萌香がガレージを見遣ると、以前見た、黒のセンチュリー(トヨタ高級車)がなかった。


(車が、ない)


 芹屋隼人は首を傾げるとガレージを指差した。


「あぁ、祖父は出掛けているようですね」


 萌香は祖父と聞き、金沢駅前の一等地にそびえる、芹屋コーポレーションの社屋を連想した。


「祖父、とは」

「代表取締役兼社長です」


 萌香は、眉間にシワを寄せた。


「ええと。もう一台、立派な車がありますが、あれはお父さんの車ですか?」


 そこには、報道番組の中継で、要人が正装で降りてくるような、黒のプレジデント(日産高級車)が駐車していた。萌香は恐る恐る、芹屋隼人の顔を見上げた。


「曽祖父の車です」


 芹屋隼人は軽く笑った。


(そんなすごい人と暮らすなんて、想像も出来ない!)


 萌香は指折り数えた。


「そ、うそふ。曽祖父って、偉い人なんですね?」

「うちの会社の会長です」

(社長に会長!?この家にそんなに偉い人が、2人もいるの!?)


 萌香の顔色が変わった。


「萌香さん?」

(もしかしたら、ディナーは、長い長ーいテーブルに座って)


 萌香の脳裏には、ヴェルサイユ宮殿のような食卓が浮かんだ。


「萌香さん、どうしましたか?」

(ご飯食べてる隣に、メイドさんが立っていたりする!?)


 この現状に耐えきれなくなった萌香は頭を掻きむしると、回れ右で門を目指した。


(もう帰る!無理!無理!こんなお城だなんて聞いてない!)


 隼人は慌てて萌香の手首を握り、両肩を掴んで真剣に顔を覗き込んだ。


「萌香さん、しっかりして下さい!」

「こんな立派なお家の婚約者なんて、私には無理です!」

「でも、私と契約したんですよね!」

「・・・契約、そうですね」


 萌香は、芹屋隼人から金銭的な援助を受けるため、契約結婚を結んだ。


「萌香さんは私と、契約結婚の約束をしました。あなたは私の婚約者です」


 芹屋隼人の目に切実な色が滲んだ。


(萌香さん、私にはあなたしか考えられない!)


 その真剣な眼差しに、萌香は両脚で石畳のエントランスを踏み締めた。


「分かりました!頑張ります!」

(そうだ!私は課長の婚約者!しっかり!頑張る!)

「ありがとうございます!」


ギィィ


 玄関先で賑やかしくしていると、マホガニーの玄関扉が鈍い音を立てて開いた。


「ヒッツ!」


 萌香は、まるで幽霊でも見たかのように飛び上がった。そこには、藍色のかすりの着物を着た、家政婦の奥寺さんが微笑んでいた。


「あら、坊ちゃん、お帰りなさいませ」

「その呼び名はやめてくれませんか?」


 萌香は、顔を赤らめる芹屋隼人の姿に目を丸くした。


(課長でも照れるんだー!)

「はいはい」


 奥寺さんは口元を綻ばせて軽く笑い、萌香に向き直った。そして会釈をするとにっこりと微笑み、スーツケースに手を伸ばした。


「萌香さん、お帰りなさいませ」

「えっ!?あっ!?お帰りなさい、ですか!?」


 萌香は驚き、スーツケースの持ち手から思わず手を離した。奥寺さんはそれを受け取ると、あらかじめ準備してあった濡れ雑巾で、スーツケースの底を拭き始めた。


「そうですよ。これからこの家が萌香さんのご自宅です」

「ここが私の家」


 芹屋隼人は萌香に、家族への手土産が入った紙袋を手渡した。萌香は慌ててそれを受け取ると、靴を揃えて家に上がった。


「お、お邪魔します」

「ただいまですよ、萌香さん」


 芹屋隼人は目を細めると、微かに笑った。


「た、ただいま帰りました」


 萌香の顔は赤らみ、胸がドキドキした。屋内は外観と異なり木造施行で、唐松を使っているのか、力強いシダーウッドの香りに萌香は目を閉じた。


(うわー、綺麗)


 壁には上品な風景画が飾られ、窓枠には彫刻が施されていた。萌香が、目を輝かせてあちらこちらを覗き見ていると、背後でプッと笑い声がした。振り向くと、芹屋隼人が笑いを堪えて、口を尖らせていた。


「課長!なにを笑っているんですか!」

「いや、モデルハウスで探検をしている小学生のようだな、と思って」

「だって!素敵ですよ!びっくりです!ほら!あそこにも!」


 そこには、葡萄と蔦が描かれた、エミールガレのキノコ型のランプが、オレンジ色の暖かな明かりを灯していた。


「あれは・・・多分、本物ですよね」

(ガレのランプなんて、テレビでしか見たことないよ)

「曽祖父のコレクションなんですよ」

「そうなんですね、あはは」


 万が一、割ってしまった時の事を考えると、個人賠償責任保険に入っていて良かったと、萌香は胸を撫で下ろした。


(こんなところで、本当に住めるのかな)


「さぁさぁ、幸雄ゆきおさんと冴子さえこさんがお待ちですよ?」


 奥寺さんが廊下の奥で手招きをした。


「どなたですか?」


 萌香は芹屋隼人に向き直った。


「私の父と母です」


 芹屋隼人は身を屈めると萌香の耳元で囁いた。萌香は耳に感じた熱に顔を赤らめ、一歩後ろに下がると睨み付けた。


「そんな怖い顔をしないで」

「だって!課長がそんな耳元で!」


 苦笑いをした芹屋隼人は、場の雰囲気を和らげるように、両親の馴れ初めを話し始めた。けれど萌香は、見知らぬこの世界から今すぐ逃げ出したい衝動に駆られ、それどころではなかった。


「さぁ、どうぞ」


 萌香の心臓は飛び跳ね、指先が震えるのが分かった。手に持った紙袋がカサカサと音を立てた。リビングに続くすりガラスの扉が開いた。そこには、焦茶の革のソファに座った50代後半の男性と女性の姿があった。


「萌香さん、父と母です」


 芹屋隼人は萌香の背中にそっと手を添えた。すると男性が中腰でゆっくりと立ち上がり、眼鏡のツルを上げた。萌香の脚は、緊張で一歩後ろに下がった。


「おお、あなたが萌香さん、隼人の父、幸雄です」

「初めまして、長谷川萌香です」


 その姿は中肉中背、髪はやや薄めで、眼鏡の下ではどんぐりのような瞳が微笑んでいた。ベージュのポロシャツに、仕立ての良い焦茶のスラックスを着て、全体的に、芹屋隼人とは真逆のふっくらとした印象を受けた。


(まさに、森のクマさんそのもの)


 隣には、面長で色白、くっきりとした二重瞼、鼻筋の通った華やかな雰囲気の女性が目を細め、首を傾げて微笑んでいた。


(綺麗!モデルさんみたい!!)


 上品な紺色のワンピースを着こなした女性の仕草や面差しから、芹屋隼人が母親似である事は明らかだった。


「初めまして、冴子です」

「初めまして!長谷川萌香です!」


 冴子の声色は、幼い子どもに接するように、優しく穏やかだった。


「隼人ったら、毎日、萌香ちゃんの話ばかりするのよ」

(も、萌香ちゃん!?)

「母さん、やめてくれませんか?」

「あら。真っ赤」


 振り返ると、芹屋隼人は照れ臭そうな顔でソファに腰掛けていた。


「いつも隼人がお世話になっています」

「こちらこそ、芹屋課長にはお世話になっております」

「これからよろしくね」


 差し伸べられた指先は白魚のように細く美しかった。萌香は、精一杯の笑顔を作り、慌ててワンピースの裾で汗ばんだ手のひらを拭いて、握手をした。冴子の手は、温かく柔らかかった。


(ええ、と)


 芹屋隼人から、母親は保育士でラッコ組の担任だと聞いていた。ところが目の前の女性は、大企業のセレブな奥さまそのものだった。


(にゃんパンまんのエプロンとか着てるかと思ってた!全然違った!)


 萌香は、想像の斜め上をゆく状況に、思考回路が追い付かなかった。紙袋を持って、微動だにしない萌香に、冴子は『萌香さん、どうぞお掛けになって』と声を掛けた。


「失礼します」


 萌香は、芹屋隼人の隣に腰掛けたが、距離感の目測を誤り、肩と肩がピッタリとくっ付いてしまった。


(やっ、恥ずかしい!)


 顔を赤らめた萌香はソファの端に飛び退き、その素早い動きに芹屋隼人は驚いた。


「萌香さん、そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」


 そこで萌香は、持参した手土産を思い出した。慌てて紙袋から菓子箱を取り出し、テーブルに置いた。


「これからよろしくお願い致します!」

「あら!ここの羊羹、美味しいのよね。大好きなの!」


 芹屋隼人のアドバイスで、手土産にこれを選んで正解だったと、萌香は胸を撫で下ろした。


「気を遣わせちゃったね、ありがとう」

「いっ、いえ!」


 そこで幸雄がテーブルに身を乗り出した。


「萌香さん」

「は、はい」

「隼人との、契約結婚の事なんだけどね」

「はい」


 幸雄の真剣な眼差しに、萌香の喉がゴクリと鳴った。

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