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第56話 婚約者

 萌香が背筋を正したその時の事だった。絶妙なタイミングで奥寺さんが、お盆を手にリビングに現れた。


「旦那様、まずはお茶でもいかがですか?」


 奥寺さんは、抹茶碗を両手で恭しくテーブルに置き始めた。


「あぁ、ありがとう」


 抹茶碗の隣には、鮎を模った茶菓子が並んでいる。


(ま、抹茶!)


 萌香が知っているのは、抹茶味のクッキーやチョコレートだけ。本物の抹茶など、映画やドラマの中でしか見た事がなかった。困惑した萌香は無意識のうちに髪に触れた。


(え、こんなの出されても、困るー!)


 茶筅で立てた、抹茶のきめ細かい泡が、漆黒の趣のある抹茶碗の中で揺らめいている。萌香は唇を噛み、抹茶碗をじっと見つめたまま動けなかった。やがて美しい泡はポツポツと消え始め、萌香は焦りを感じた。


(え、わからない!どっちから食べるの!?)


 萌香は、抹茶碗と茶菓子を交互に見て戸惑った。そんな萌香の横顔に、芹屋隼人は目を細め、茶菓子に竹の爪楊枝を刺し、半分に切り分けた。そして口に運ぶと、萌香に軽く微笑み、頷いた。


(お菓子!お菓子から食べれば良いんだ!)


 後は見よう見真似で抹茶を頂いたが、舌の上には渋みだけが残った。そして、ゆっくりと抹茶碗をテーブルに置いたが、茶道のマナーを知らない自分が気恥ずかしくなり、視線を床に落とした。


(私、こんなので、婚約者の代わりなんて出来るの?無理じゃない?)


 たった一杯の抹茶すら口に出来ない自分が、契約結婚を成し遂げられるのか?不安が胸を締め付けた。


「そこで、萌香さん」

「は、はい!」


 静けさの中、幸雄の切り出した言葉に、萌香は、抹茶のゲップが出そうになるのを堪えて返事をした。


「長谷川さんにお願いした契約結婚ですが、幾つか確認して頂きたい事があります」

「はい」


 萌香の表情は強張り、テーブルの下で握った指先に力が入った。


「萌香さん、隼人には正式な婚約者がいます」

「はい、芹屋課長からお聞きしました」


 幸雄の言葉は重く、萌香はそれに気圧された。芹屋隼人には婚約者がいる。芹屋隼人の言葉に嘘偽りはなかった。


(そう、課長には婚約者がいるんだよね)


 萌香はショルダーバッグの中で輝いている婚約指輪に触れた。それは契約で結ばれた婚約でしかなく、真実のものではない。ワインバーでの出会い、濃密な一夜、衝撃的な再会、日々繰り返す付箋でのメッセージ、付箋には”だいすき”と書かれていた。いつしか芽生えた芹屋隼人への好意に気付いた萌香の心は、細い針で突き刺したようにチクリと痛んだ。


(ちょっと辛いな)


 芹屋隼人の婚約は、曽祖父が決めたと言った。しかし、それは企業間の結び付きを強固にする為の、政略結婚だった。ところがその女性は芹屋隼人との結婚を拒み、行方知れずになってしまった。萌香は、行方知れずという言葉になぜか胸がざわついた。


「そこで、長谷川さんに契約結婚をお願いしました」

「はい、それも芹屋課長からお聞きしました」

(こんな気持ちで、契約なんて続けられるのかな)


 萌香は、芹屋隼人の横顔を見つめながら、あの蛍光ピンクの付箋を思い出した。


”だいすき”


 萌香は、こんな感情を抱いたまま、契約を続けられるかどうか不安が過った。けれどこの契約が破棄されれば、金銭的に困窮している萌香は住む家もなく、路頭に迷ってしまう。芹屋隼人は、契約結婚を結ぶ際の条件として、経済的支援を約束してくれた。


(そう!これは課長との契約だもの、頑張るしかない!)


 萌香が伏せていた目を輝かせると、芹屋隼人は目を細めて肩を竦めた。


「どうしましたか?」

「頑張ります!」

「はい、頑張って下さい」


 微笑みあう2人を温かな目で見守っていた幸雄と冴子だったが、急に眉間にシワを寄せて唸りだした。


「長谷川さん、隼人のお相手の女性の名前は聞いていますか?」

「・・・え?」


 そう言えば萌香は『婚約者』の名前を知らなかった。すると、芹屋隼人は目線を逸らし、テーブルに肘を突いて顔を隠した。幸雄は話を続けようとしたが、表情には戸惑いが感じられた。その隣に座る冴子は、気不味そうに視線をテーブルに落とした。萌香はその姿に、ただならぬものを感じた。


(なに、なにこの微妙な空気)


 特に、芹屋隼人は目を伏せ、萌香の顔を見ようともしなかった。幸雄は眼鏡を外すと眉間を押さえ、もう一度眼鏡を掛け直した。奥歯に物が詰まったような、なにかを言い出しにくそうな感じが否めない。


「父さん、私が言います」


 芹屋隼人は顔を上げ、意を決したように萌香に向き直った。


「課長?どうしたんですか?」

「萌香さん、すみません」

「顔、強張ってますよ?大丈夫ですか?」


 芹屋隼人は大きく息を吸うと、毅然とした態度で萌香を凝視した。


「私の見合いのお相手は、真言寺グループのお嬢さんです」

「はい」

(課長、なんでそんなに緊張してるんだろう)

「その方のお名前ですが」


 萌香は、深刻な面持ちの芹屋隼人の真剣な眼差しに身動きが取れなかった。ゆっくりとその唇が動き、その名前を告げたが、初めはなにを言っているのか理解するまで時間を要した。


「・・・え?」


 時間が止まったような気がした。


「その方のお名前は、真言寺 萌香しんごんじ もえかさん、萌香さんと同じ名前になります」


 芹屋隼人は眉間にシワを寄せ、萌香から視線を逸らした。


「萌香、もえ、か?」

「はい」

「私と同じ名前ですね」

「はい」


 芹屋隼人の婚約者の名前は真言寺萌香。名前は萌香と、一字一句違わなかった。萌香は、驚きと怒りで顔を赤らめると、芹屋隼人ににじり寄った。


「課長!これはどういう事ですか!?」

「騙すような事になって申し訳ありません!」

「もしかして、同じ名前だから私を選んだんですか!?」


 その勢いでソファがギシギシと軋み、芹屋隼人は背中を反らせて謝罪の言葉を呪文のように唱えた。


「は、長谷川さん!落ち着いて下さい!」


 幸雄は立ち上がると、芹屋隼人の肩を叩きソファに座るように促した。取り乱していた萌香ははっと我に帰り、呼吸を整え、髪の乱れを直して顔を赤らめた。


「すみません、ちょっとびっくりして」


 冴子はキッチンに声を掛け、奥寺さんにミネラルウォーターを持って来るようにお願いした。


「萌香ちゃん、お水飲んで。落ち着いて、ね?」

「ごめんなさい、ありがとうございます」


 手渡された透明なグラスは指先にヒヤリと冷たく、萌香は水を飲み干すように沸き上がった怒りを心に収めた。まさか婚約者が自分と同じ名前で、その事実をこれまで芹屋隼人が隠していたという事が切なく、悲しかった。


(そうだよ、黙っているなんてずるいよ)


 萌香がグラスをテーブルに置くと、芹屋隼人がその顔を覗き込んで来た。


「萌香さん、あなたを騙すつもりはありませんでした。ただ、言い出すタイミングが見つからなくて、今日になってしまいました」

「そうですか」

「怒っていますか?」


 萌香は眉間にシワを寄せ、鋭い目でその顔を睨み付けた。


「当たり前です!」

「ごめんなさい」


 幸雄は眼鏡を外すと側にあったティッシュでレンズを拭き始めた。


「長谷川さん、隼人を責めないでやって下さい」

「・・・?」

「隼人と懇意にしている女性が真言寺さんと同じ名前なら、身代わりになってもらえないかと提案したのは僕なんです」

「そうなんですか・・・」

「申し訳ない」


 冴子は深々と頭を下げた。


「隼人の問題に萌香ちゃんを巻き込んで、ごめんなさいね」

「いえ、私も自分で契約した事なのに、こんなに取り乱して、ごめんなさい」


 萌香が『これは契約だ』と口にした瞬間、芹屋隼人の動きが止まった。


(そうだ、この婚約は嘘だ)


 萌香と芹屋隼人の契約結婚は、真言寺萌香が姿を現した時、白紙となってしまう事に、2人は気付かぬ振りをしていた。


「・・・・・」


 重苦しい空気が漂った。そこで、萌香が思い付いたように口を開いた。


「幸雄さん」

「なんでしょうか?」

「この契約結婚の事を知っているのは、誰と誰ですか?」 

「それは」


 その時、廊下を歩いて来る足音が聞こえた。すりガラスの向こうに人影が揺らめき、ドアノブが下がった。

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