萌香が背筋を正したその時の事だった。絶妙なタイミングで奥寺さんが、お盆を手にリビングに現れた。
「旦那様、まずはお茶でもいかがですか?」
奥寺さんは、抹茶碗を両手で恭しくテーブルに置き始めた。
「あぁ、ありがとう」
抹茶碗の隣には、鮎を模った茶菓子が並んでいる。
(ま、抹茶!)
萌香が知っているのは、抹茶味のクッキーやチョコレートだけ。本物の抹茶など、映画やドラマの中でしか見た事がなかった。困惑した萌香は無意識のうちに髪に触れた。
(え、こんなの出されても、困るー!)
茶筅で立てた、抹茶のきめ細かい泡が、漆黒の趣のある抹茶碗の中で揺らめいている。萌香は唇を噛み、抹茶碗をじっと見つめたまま動けなかった。やがて美しい泡はポツポツと消え始め、萌香は焦りを感じた。
(え、わからない!どっちから食べるの!?)
萌香は、抹茶碗と茶菓子を交互に見て戸惑った。そんな萌香の横顔に、芹屋隼人は目を細め、茶菓子に竹の爪楊枝を刺し、半分に切り分けた。そして口に運ぶと、萌香に軽く微笑み、頷いた。
(お菓子!お菓子から食べれば良いんだ!)
後は見よう見真似で抹茶を頂いたが、舌の上には渋みだけが残った。そして、ゆっくりと抹茶碗をテーブルに置いたが、茶道のマナーを知らない自分が気恥ずかしくなり、視線を床に落とした。
(私、こんなので、婚約者の代わりなんて出来るの?無理じゃない?)
たった一杯の抹茶すら口に出来ない自分が、契約結婚を成し遂げられるのか?不安が胸を締め付けた。
「そこで、萌香さん」
「は、はい!」
静けさの中、幸雄の切り出した言葉に、萌香は、抹茶のゲップが出そうになるのを堪えて返事をした。
「長谷川さんにお願いした契約結婚ですが、幾つか確認して頂きたい事があります」
「はい」
萌香の表情は強張り、テーブルの下で握った指先に力が入った。
「萌香さん、隼人には正式な婚約者がいます」
「はい、芹屋課長からお聞きしました」
幸雄の言葉は重く、萌香はそれに気圧された。芹屋隼人には婚約者がいる。芹屋隼人の言葉に嘘偽りはなかった。
(そう、課長には婚約者がいるんだよね)
萌香はショルダーバッグの中で輝いている婚約指輪に触れた。それは契約で結ばれた婚約でしかなく、真実のものではない。ワインバーでの出会い、濃密な一夜、衝撃的な再会、日々繰り返す付箋でのメッセージ、付箋には”だいすき”と書かれていた。いつしか芽生えた芹屋隼人への好意に気付いた萌香の心は、細い針で突き刺したようにチクリと痛んだ。
(ちょっと辛いな)
芹屋隼人の婚約は、曽祖父が決めたと言った。しかし、それは企業間の結び付きを強固にする為の、政略結婚だった。ところがその女性は芹屋隼人との結婚を拒み、行方知れずになってしまった。萌香は、行方知れずという言葉になぜか胸がざわついた。
「そこで、長谷川さんに契約結婚をお願いしました」
「はい、それも芹屋課長からお聞きしました」
(こんな気持ちで、契約なんて続けられるのかな)
萌香は、芹屋隼人の横顔を見つめながら、あの蛍光ピンクの付箋を思い出した。
”だいすき”
萌香は、こんな感情を抱いたまま、契約を続けられるかどうか不安が過った。けれどこの契約が破棄されれば、金銭的に困窮している萌香は住む家もなく、路頭に迷ってしまう。芹屋隼人は、契約結婚を結ぶ際の条件として、経済的支援を約束してくれた。
(そう!これは課長との契約だもの、頑張るしかない!)
萌香が伏せていた目を輝かせると、芹屋隼人は目を細めて肩を竦めた。
「どうしましたか?」
「頑張ります!」
「はい、頑張って下さい」
微笑みあう2人を温かな目で見守っていた幸雄と冴子だったが、急に眉間にシワを寄せて唸りだした。
「長谷川さん、隼人のお相手の女性の名前は聞いていますか?」
「・・・え?」
そう言えば萌香は『婚約者』の名前を知らなかった。すると、芹屋隼人は目線を逸らし、テーブルに肘を突いて顔を隠した。幸雄は話を続けようとしたが、表情には戸惑いが感じられた。その隣に座る冴子は、気不味そうに視線をテーブルに落とした。萌香はその姿に、ただならぬものを感じた。
(なに、なにこの微妙な空気)
特に、芹屋隼人は目を伏せ、萌香の顔を見ようともしなかった。幸雄は眼鏡を外すと眉間を押さえ、もう一度眼鏡を掛け直した。奥歯に物が詰まったような、なにかを言い出しにくそうな感じが否めない。
「父さん、私が言います」
芹屋隼人は顔を上げ、意を決したように萌香に向き直った。
「課長?どうしたんですか?」
「萌香さん、すみません」
「顔、強張ってますよ?大丈夫ですか?」
芹屋隼人は大きく息を吸うと、毅然とした態度で萌香を凝視した。
「私の見合いのお相手は、真言寺グループのお嬢さんです」
「はい」
(課長、なんでそんなに緊張してるんだろう)
「その方のお名前ですが」
萌香は、深刻な面持ちの芹屋隼人の真剣な眼差しに身動きが取れなかった。ゆっくりとその唇が動き、その名前を告げたが、初めはなにを言っているのか理解するまで時間を要した。
「・・・え?」
時間が止まったような気がした。
「その方のお名前は、
芹屋隼人は眉間にシワを寄せ、萌香から視線を逸らした。
「萌香、もえ、か?」
「はい」
「私と同じ名前ですね」
「はい」
芹屋隼人の婚約者の名前は真言寺萌香。名前は萌香と、一字一句違わなかった。萌香は、驚きと怒りで顔を赤らめると、芹屋隼人ににじり寄った。
「課長!これはどういう事ですか!?」
「騙すような事になって申し訳ありません!」
「もしかして、同じ名前だから私を選んだんですか!?」
その勢いでソファがギシギシと軋み、芹屋隼人は背中を反らせて謝罪の言葉を呪文のように唱えた。
「は、長谷川さん!落ち着いて下さい!」
幸雄は立ち上がると、芹屋隼人の肩を叩きソファに座るように促した。取り乱していた萌香ははっと我に帰り、呼吸を整え、髪の乱れを直して顔を赤らめた。
「すみません、ちょっとびっくりして」
冴子はキッチンに声を掛け、奥寺さんにミネラルウォーターを持って来るようにお願いした。
「萌香ちゃん、お水飲んで。落ち着いて、ね?」
「ごめんなさい、ありがとうございます」
手渡された透明なグラスは指先にヒヤリと冷たく、萌香は水を飲み干すように沸き上がった怒りを心に収めた。まさか婚約者が自分と同じ名前で、その事実をこれまで芹屋隼人が隠していたという事が切なく、悲しかった。
(そうだよ、黙っているなんてずるいよ)
萌香がグラスをテーブルに置くと、芹屋隼人がその顔を覗き込んで来た。
「萌香さん、あなたを騙すつもりはありませんでした。ただ、言い出すタイミングが見つからなくて、今日になってしまいました」
「そうですか」
「怒っていますか?」
萌香は眉間にシワを寄せ、鋭い目でその顔を睨み付けた。
「当たり前です!」
「ごめんなさい」
幸雄は眼鏡を外すと側にあったティッシュでレンズを拭き始めた。
「長谷川さん、隼人を責めないでやって下さい」
「・・・?」
「隼人と懇意にしている女性が真言寺さんと同じ名前なら、身代わりになってもらえないかと提案したのは僕なんです」
「そうなんですか・・・」
「申し訳ない」
冴子は深々と頭を下げた。
「隼人の問題に萌香ちゃんを巻き込んで、ごめんなさいね」
「いえ、私も自分で契約した事なのに、こんなに取り乱して、ごめんなさい」
萌香が『これは契約だ』と口にした瞬間、芹屋隼人の動きが止まった。
(そうだ、この婚約は嘘だ)
萌香と芹屋隼人の契約結婚は、真言寺萌香が姿を現した時、白紙となってしまう事に、2人は気付かぬ振りをしていた。
「・・・・・」
重苦しい空気が漂った。そこで、萌香が思い付いたように口を開いた。
「幸雄さん」
「なんでしょうか?」
「この契約結婚の事を知っているのは、誰と誰ですか?」
「それは」
その時、廊下を歩いて来る足音が聞こえた。すりガラスの向こうに人影が揺らめき、ドアノブが下がった。