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Episode:2 第四章

奇跡監査官

 朝靄が漂う早朝のアイゼンフェルの街中。


 慎ましやかなノックの音が響く。

 しかし扉の向こうからは人がやってくる気配はしない。


 扉の前で男は眼鏡の位置を直して、もう一度、今度は先程よりも大きな音のノックをする。

 しかし結果は同じで、辺りは静寂に包まれたままだった。


 扉の間に小柄な女が割り込んだ。女は拳骨で派手に扉を叩く。静かな通りに打楽器のような大きな音が響く。


「ちょ、ちょっと、エマちゃん。音が大きいよ」


「大丈夫です」


 フランツの制止も虚しく再び扉を強打するエマ。

 古びた扉が壊れないだろうかフランツが心配になるほどだった。


 しかし、いくら扉を叩いても中から誰かが出てくる気配はしない。


 フランツが横の窓から中を覗こうとしていると、おもむろにエマが扉に手を掛けた。

 扉は何の抵抗もなく、ガチャリと音を立てて開いた。鍵が掛かっていなかったらしい。


「エマちゃん、勝手に開けちゃだめだよ……」


「ここで待っていても、埒が明きません。入りましょう」

 エマはフランツの応答も待たずに、扉の中へ入った。


 そこは、みすぼらしい扉から想像していた様子とは大きく違っていた。

 机などの調度品はきちんと整えられていて、壁面の棚には本と瓶が綺麗に区分けされて几帳面に並べられている。


 床もホコリや塵は一つも落ちていなく、綺麗に磨き上げられていることが覗えた。


 エマが人の気配に気づいて視線を向けた。


 棚とは反対側の壁面にソファが置いてあり、そこで一人の男が寝ていた。


 男は一本の杖を大事そうに抱えて、静かに寝息を立てている。


「やれやれ、これじゃ、泥棒って言われても、反論できないよ……」


「フランツさん。あれを」

 エマがソファの男を指さした。


「ん? ああ、おそらく彼がヨハンさんだね」


「杖を持っています。あれが例の杖でしょうか?」


「そうかもしれないね」

「取ってみましょうか」

 エマがソファに近づきながら言った。


「止めときなさい。それこそ、泥棒だよ」

 フランツはエマの肩に手を当てて制止する。そしてソファの側にしゃがみ込んだ。


「おはようございまーす。ヨハンさーん」

 フランツはヨハンの身体を揺すりながら、大声で起こし始めた。


 やがてヨハンは顔をしかめながらも、うっすらと目を開ける。そして目を擦りながら、目の前のフランツとその後ろのエマを見た。


「うぉ、なんだお前ら。泥棒か!」

 ヨハンは飛び起きて身構えた。


「泥棒だったら、わざわざ起こしませんよ」

 エマが冷静に言う。


 フランツは両手を広げて見せて、危害を加えないという意思表示をする。

「ヨハンさん。我々は泥棒ではありません。少しお話がしたいだけです」


「話? というか、誰だ、お前ら?」


「我々は、聖道教会の者です」


「……教会? 教会が何の用だ?」

 最初は身構えていたヨハンも、フランツの柔らかな物腰に緊張を解き始めた。


「そうですね。そこを含めてのお話です。ですが、お互いきちんと座って話をしませんか?」

 フランツは部屋の中央付近のテーブルセットを指差しながら告げた。


**********


「――奇跡、監査官?」


「ええ、そうです。私はフランツ・クロード奇跡監査官。こちらはエマ・ラクロワ奇跡監査補佐官です」


 ヨハンが不審そうに、フランツとエマを見る。

「勝手に部屋に入ってきてはいるが、部屋を物色した様子はねえ、寝込みを襲うこともしてねえし、とりあえずは泥棒じゃなさそうだな」


 ヨハンの言葉にフランツは鷹揚に頷く。


「しかし、何だ、その、奇跡監査官が俺に何の用だ?」


「貴方が作った杖に興味があります」


「杖? ひょっとして、あの杖か?」

 ヨハンは作業机の上に置いた橙色の宝玉の杖を指さした。


「あれが、『万療樹の杖』なら、そうです」


「あの杖を使ったのは、昨日が初めてなんだが。随分と耳が早いんだな……」


「ええ、職業柄、そうならざるを得ませんからね」

 眼鏡の位置を直しながらヨハンは微笑んだ。


「で? あれが『万療樹の杖』だとして、どうしたいんだ? 治して欲しい病気でもあるのかい?」


「奇跡認定に値するのかを確かめたいのです。『万療樹の杖』は『アルカナス目録教書』に記述されている錬成物ですよね? 

 あの目録教書の内容は我々も熟知しています。もしあの杖が本当に『アルカナス目録教書』の記述どおりに造られた『万療樹の杖』ならば、充分に奇跡認定を受ける可能性があります」


「奇跡認定……って、それは壮大な話だな。怪我や病気を治すただの杖だぜ?」


「もちろん、怪我や病気を治す杖や魔法具ならば他にもあります。しかし、『何でも』治すことができて、『永遠に』使えるとなれば、話は別です」


「……仮に、奇跡認定されるとどうなる?」


「教会に譲って頂きたい」

 フランツは両手をテーブルの上で固く組み、ヨハンの目を真っ直ぐに見据えて告げた。


「教会に?」


「ええ、そうです。もちろん、あの杖に見合う対価はお支払いします。それに奇跡認定を受けた逸品を造った錬金術師となれば、貴方は当代随一の錬金術師の栄誉を受けるでしょう。そして、我が聖道教会の専属錬金術師として招かれることになります」


 ――当代随一の錬金術師、そして教会専属の錬金術師。フランツは錬金術師ならば誰も憧れるであろう称号を口にした。

 しかし、ヨハンの心にはあまり響いた様子は無い。


「ふーん。まぁ、教会に管理して貰う方がいいか。でも、もう少し待ってくれるかい?」


「ええ、もちろんです。競技会が終わってからで結構です」


「ああ、わかった、競技会が終わったら、教会の手に渡るようにする」


「ええ、わかりました」


 フランツはにっこりと微笑んだ。


***********


 挨拶を済ませたフランツがエマと工房を出て行こうとすると、入れ違いで一人の黒髪の少女が現れた。

 少女はフランツたちを見ると、少し不思議そうな顔をしたが、軽く会釈をした。


「ヨハンさん、おはようございます。朝ご飯を持ってきました」

 そして、そう言いながら工房の中へと入って来た。


「おう、嬢ちゃん、おはよう」

 その少女はヨハンの知り合いらしく、彼の挨拶に笑顔で応えていた。


 少女とすれ違う時、フランツの背筋に寒気が走った。びくりとして振り返り少女を見た。


 彼女は手に持ったバスケットからパンやワインをテーブルへ並べていた。


 しばし逡巡した後、フランツは再び扉の方へと歩く。


 そして工房を出る寸前、微かに振り返って少女を一瞥した後、扉から出ていった。


「――フランツさん、あの少女がどうかしましたか?」

 工房から出るなり、エマがフランツへ問うてきた。


 エマは目ざとく工房を出る寸前のフランツの様子の変化を感じ取っていたらしい。


「うーん、ちょっと、違和感を憶えたのだけどね」


「違和感ですか……、特に手練れという風にも見えませんでしたが」


「ああ、そっちの違和感じゃないよ。もっと別の感覚さ」

 フランツはそれ以上言葉を続けずに歩き出した。


 そんな様子を訝りながらもエマはフランツの後に続いた。

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