どす黒い血にまみれた僕を見た奥さんは、ぎょっとしていた。一方、八坂さんはいつものこととばかりに冷静だ。
ふたりを『アトリエ』に連れてくると、そこには完成した『作品』がある。
その凄絶な『作品』を目の前にした奥さんは、直後に真っ青になってふらりと倒れそうになった。とっさに八坂さんが肩を抱き留める。
「……すみません……大丈夫ですから……」
うわ言のようにそう告げると、奥さんはすぐに自分の足で立った。
顔色は悪いままだ。それはそうだろう、こんな芸術的暴力に触れて、正気でいられるはずがない。ノックアウトされても仕方がないのだ。
それでも、奥さんは決して泣きはしなかった。
ただ凛とした視線でまっすぐに『作品』を見つめ、しばらくの間対峙する。
「……いつか、こうなることはわかっていました」
だれにともなく語り始めた奥さんの声は、涙まじりでもないし震えてもいない。どこまでもきりっとしている。
「自分の『正義』に押し潰されてしまうのではないかと、いつも考えていました……このひとは、政治家になるにはあまりにも清すぎました。清廉潔白でありつづけるには、政界という場所は毒で満ちあふれていました」
そこで、奥さんは大きくため息をついた。額に手をやり、自分の熱を冷ますように目を閉じる。
「……覚悟はできていたはずなんですけどね。政治家の妻として、いつこうなってもうろたえないように、こころを決めていたはずなのですが……」
目を開いた奥さんのまなざしは、やはり凛としていた。しかし、その光の中には一条のかなしみが差し込んでいる。
「……やっぱり、実際に喪ってしまうと、こたえますね」
おそらくは、これが政治家の妻としてのケジメの付け方なのだろう。
泣くことも、後悔することも許されない。
だから、たった一言の嘆きの言葉くらいは許されていいはずだ。
その姿は、まぎれもなく『武家の妻』だった。
実際に戦うわけではないが、だれよりも強い覚悟を秘めて待つ女の姿だ。
奥さんは『作品』に触れもせず、ただじっと見つめたあと、一歩下がって一礼すると、そのまま『アトリエ』から出ていった。
……あとには、静寂と三人分の息遣いだけが残される。
八坂さんは、一体どんな風にこの『作品』を受け止めたのだろうか?
気になった僕は、『アトリエ』に立つ男に視線を向けた。
……そこには、ただの嫌悪があった。
怒りも、悲しみも、おそれもない。
ただ真顔で、サングラスの奥の目だけをすがめている。
その口元が小さく動いた。
「……『バケモン』が。けったクソ悪い」
吐き捨てたその言葉は短い。
しかし、八坂さんの中の吐き気じみた嫌悪がにじみ出ていた。
……ああ。
これが『普通』の反応なんだ。
ただのニンゲンは、こういう感情で『作品』を見るんだ。
本能的に『死』を忌避することは、生物としてどうしようもなく正しい。そんな『死』を目の前に突きつけるようなこの『創作活動』は、まさに唾棄すべきおこないなのだ。いのちある生き物として、こんなことは許されることではない。
そんな生き物の『正義』に忠実に、八坂さんは『普通』のニンゲンとして、この『作品』を受け取った。
その反応に、無花果さんはどこかさみしげに笑う。
やっぱり理解されなかったか、と落胆しているようにも見えた。
……けど、僕は。
他のだれが拒絶しようとも、僕だけはこの『作品』に意味を見出す。
そして、どうしても惹かれてしまうのだ。
もっと触れたいと、思ってしまうのだ。
僕は、無花果さんと同じ『モンスター』でしかない。
けど、『モンスター』はひとりぼっちではない。
同じ『モンスター』である僕は、理解する。理解して、寄り添う。
触れられなくてもいい、ただそばにいる。
それこそが『モンスター』同士の距離感だ。
ただ、『作品』だけが『共犯者』としてのきずなを結びつけている。
無花果さんは『死体装飾家』で、僕は『記録者』。それがこの魔女の『庭』で与えられた役目だ。『共犯者』たるゆえんだ。
決して触れてはいけないものがあることはわかっている。踏み込んではいけない領域があることも、わかっている。
それでもなお、僕は『記録者』として『死体装飾家』のすべてを理解し、記録し、記憶する。
それが、僕に与えられた義務であり、権利だ。
絶対にだれにも譲らない。
……八坂さんは、『まだ戻れる』と言っていた。
けど、僕はもう『戻らない』『戻りたくない』と願ってしまった。
中途半端な『モンスター』であろうとも構わない。
僕は僕自身の意思で、これからゆくけもの道を確定した。
決めてしまったら、あとはもう、前に進むことしかない。たとえどんな悲劇が待ち構えていようとも、その全部をしっかりと見届けて、目を逸らさずにいなければならない。
そういう自分なりの『正義』を胸に、僕は『記録者』として『庭』に立っているのだから。
「……前言撤回や」
八坂さんが僕に向ける視線は、もうニンゲンを見るようなものではなくなっていた。
無花果さんや『作品』に向けられるのと同様、理解できない『死』を忌避するもののそれだった。
サングラスの奥の視線が痛いくらいに感じられる。
八坂さんは重々しいため息をひとつついて、
「坊主、お前、もう戻れんわ」
「……どうも」
ぺこりと頭を下げる。
この『庭』の『監視者』からのお墨付きをいただいて、僕はむしろ誇らしかった。
僕は『普通』じゃない。
僕は『モンスター』だ。
……これでやっと、胸を張って無花果さんと同じステージに立てる。
高みに、あるいは奈落に、いっしょに堕ちていける。
……そんなことを考えてしまうあたり、僕もずいぶんと人間性をかなぐり捨てたものだ。
すべてはあの『作品』のせいだ。
あんな風にぼこぼこにこころを殴りつけられてしまったら、もうパンチドランカーになるしかないじゃないか。『死』に酔いしれるしかないじゃないか。
秘めていたはずの僕の『モンスター』としての本性は、『魔女』の手によってまんまと引きずり出されてしまった。
八坂さんは僕から視線を逸らすと、そのまま無言で『アトリエ』を去っていった。
八坂さんがどういうつもりで忌避すべきこの事務所に寄り付いているのかはわからない。単に『監視者』としての役割を果たしているだけだとは思えない。そこには、まだ僕には触れられない理由があるはずだ。
魔女の『庭』の『監視者』。
罪を見つめる、絶対的な『正義』の目。
ああ、『神様』だと言っていたか。
神も悪魔もそろって踊るなんて、いかにもこの地獄じみた『庭』らしいじゃないか。
「……さあ、まひろくん」
無花果さんがうながす。みなまで言わなくてもその一言ですべてが通じた。
「……はい」
うなずいて、僕はカメラを構える。ファインダーをのぞき、レンズを向けて、ピントと絞りを調節し、シャッターを切る。
かしゃん。かしゃん。かしゃん。
何度も何度も何度も何度も、フィルムに『死』を焼き付ける。
そして、自分のこころに、記憶に、この『作品』を刻みつける。
そうして、僕は自分の義務を、権利を行使するのだ。
さまざまな角度から、さまざまな構図で『作品』をカメラに収めているうちに、ふと思う。
……無花果さんのことも、カメラに収めなければならないな。
かわいそうで、しかしどこまでも美しい『魔女』がいたことを『記録』しなければならない。
そのためには、僕自身がはだかの無花果さんと向き合う必要がある。
すべての防御壁を取り払った春原無花果。
それは一体、どれだけ残酷できれいなものなんだろう?
思いを馳せつつ、僕は一心不乱にシャッターを切り続けるのだった。