こころゆくまで写真を撮り続けた僕は、ようやく『アトリエ』をあとにしてバスルームに向かった。
腐った血でべたべたになった服を苦労して脱ぎ捨てると、洗濯機の中に放り投げる。べちゃ、と音がして、ようやく僕は『死』のにおいから開放された。
はだかになってバスルームに入って、シャワーのレバーを下ろす。しばらくして、だんだんと水温が上がってきた。
なまぬるい温度のお湯を頭から浴びながら、こびりついた『死』の残滓をていねいに洗い落としていく。
シャンプーをがしがしと泡立て、ボディソープで肌を流し、僕は徐々に『きれいに』なっていく。
……それでも、こころの奥底にはずっと『死』の残り香ががこびりついていた。
そんな香りに迫られるようにして考えるのは、『正義』によって殺された男のことだ。
……結局、『正しさ』とはなんなんだろう。
今回はたくさんの正義と向き合うことになった。
大衆の『正義』、議員の『正義』、奥さんの『正義』、八坂さんの、無花果さんの、そして僕の『正義』。
そうしてわかったことは、『正しさ』なんてものはひとの数だけあるということだ。
だれもが『正しく』、だれもが『正しくない』。
ゆがんでいても、理不尽であっても、そのひとにとって確信できるものならば、それはそのひとなりの『正義』だ。
そんな『正しさ』に基づいてゆく道に、正解も不正解もない。それほど簡単に判断できるほど、単純でなまやさしいものではない。
それは『死』と同様、ただの生き様でしかない。その道をゆけば、歩んだ足跡が生きた証としてくっきりと残る。おのおのの『正義』に忠実に生きてきたという事実が、明確な形になる。
……問題は、いざ最期の瀬戸際に立たされたとき、その形に納得できるかどうかだ。
おそらく、それは覚悟を持って歩んできたかどうかにかかっている。
みんな、覚悟を決めて自分の道を歩いている。
無花果さんは孤独と呪いと祈りを背負って。
八坂さんは『神様』としての責任と矜恃を胸に。
議員は死を持ってまでそれを証明した。
奥さんは議員の『死』に直面してもなお毅然として前を向いていた。
……だったら、僕はどうなんだ?
明瞭な覚悟を持って、自分なりに『正しい』道を歩いてきたと、最期に納得できるのだろうか?
……それはきっと、そのときが来るまでわからない。まだそこまでの確信は、僕の中にはない。
けれど、今は、現在は、僕は胸を張って言える。
これが僕の『正義』だと。
僕のゆく道が正解なのか不正解なのか、そんなことは関係ない。そんなジャッジをくれる親切なだれかなんてどこにもいない。
やがて死にゆくいのちだからこそ、僕のそれにだってなんらかの意味がある。この事務所に行き着いたことだって、たくさんの『死』をカメラに収めてきたことだって。
魔女の『庭』の『記録者』。そんな役割を与えられ、僕のカメラには使命が宿った。だれも明言したわけではないけど、これは僕自身が決めたこの探偵事務所での立ち位置だ。
無花果さんという『モンスター』を理解してしまった以上、それは僕が果たすべき義務だ。そして、権利だ。
魔女の『庭』の『記録者』としての『正義』が、僕にはある。そのために生まれてきたのだと言っても過言ではないほどに。
生まれてきた意味を果たすために、僕はシャッターを切り続ける。この行き着く先もわからないけもの道を歩き続けるのだ。
……気づけば、シャンプーの泡が滑り落ちていく頬には笑みが浮かんでいた。まぎれもない、『共犯者』の笑みだ。
いびつで、しかしハラの底から浮かんできた笑顔。そんな表情になったことに満足して、僕は残りの泡をすっかり流しきってしまった。白い泡が渦を巻いて排水溝に吸い込まれていくのを見送り、お湯を止める。しばらくの間、バスルームにはしずくの落ちる音だけが響いていた。
……シャワーから上がって着替えて髪を拭きながら出てくると、なぜか深刻そうな顔をしている無花果さんがいた。ソファで碇ゲンドウのように手を組んでうつむいている。
「どうしたんですか、無花果さん?……もしかして、やっぱり大丈夫じゃないんじゃ……」
なにせ、自殺者の思考をトレースしたのだ。追いかけているうちに『死』に引きずり込まれてもおかしくはない。
無花果さんは重々しいため息をついて、
「…………どうして、ひとは戦争をやめないのだろうね…………?」
……ああ、これ、一発ヤったひとの賢者タイムだ。心配して損した。
スポーツドリンクの蓋を開けながら、僕は向かい側に腰を下ろした。
「……女のひとにもあるんですね、賢者タイム……」
「……クソ童貞の君にはわからないだろうけどね……外イキすると男と同じ反応になるのさ……」
「とてつもなく不必要な情報をありがとうございます」
「だから君は童貞なのだよ……!」
無花果さんの目に、ゆらりと鬼火じみた光が浮かぶ。そして、いきなり僕に覆いかぶさってきた。
「ちょっ、なにするんですか!?」
「ええい! ええい! 抵抗するなおとなしくしろひとはだのぬくもりをよこせえ!!」
「無花果さん!?」
「ほらほら、メスのにおいだよ!? 君は嗅いだことがないだろうけどね! ありがたいメスの香りをたーっぷりと嗅ぎたまえよ! ほらほら!」
なんて押し付けがましいありがた迷惑なんだろう。
必死に抵抗してついには掴み合いになりながら、僕は無花果さんに言った。
「くさいですから、早くお風呂入ってください!」
「くさいとか言うなぁ! これはイジメだよ! 小生、いわれのない誹謗中傷でひどく傷ついたよ!」
「いわれなくないです! くさいです! いいからお風呂入りなさい!」
「ちっ、わかったよぅ! もう二度と、頼み込まれたって嗅がせてやらないんだからねっ! 今夜は小生のメスのにおいでマスかくんだよ、いいね!」
そんな捨てゼリフを残して、無花果さんはばたばたと騒がしくバスルームに消えていった。
……やれやれ。
スポーツドリンクを喉に流し込んで肩を落とす。
ああやってバカやってるけど、内心はきっとぎりぎりになっているはずだ。せめて騒いでいないと、『死』の間際まで近づいた代償に押し潰されてしまいそうになる。だから、いつも通りに振舞っているのだ。
無花果さんのこともだいたいわかってきた。
大騒ぎしている躁病患者の厄介な女としての無花果さんと、『創作活動』に向き合っているときの『死』と『祈り』と『呪い』に縁取られた無花果さん。
かといって、どちらかが仮面であるわけではない。
どっちも『春原無花果』という『モンスター』を構成する要素であって、相反するものではないからだ。
どちらも『正しい』。
無花果さんにとって、そういう存在であることが自然なのだろう。
とてもゆがんでいて、かわいそうだけど、やっぱり美しい。
だからこそ、僕は『作品』だけでなく無花果さんのことも撮りたいと思ったのだ。
ある意味、『作品』よりもずっと大切な被写体なのかもしれない。
無花果さんだけじゃない。三笠木さんも、所長も、小鳥さんも、八坂さんも、きっとカメラに収めておくべき……『記録』しておくべき存在だ。
目を逸らさずに見届ける。
ここにいるすべてのひとたちの『正義』を。
歩んできた道を。
不格好だってなんだって、それは価値あるものに違いない。僕がフィルムに焼き付けて、記憶に刻んでおくべき被写体なのだ。
……さて、次はどんなものを撮ろうか。
スポーツドリンクで喉を湿しながら、僕は次の被写体に思いを馳せて、バスルームで浮かんだのと同じ笑みで頬をゆるませるのだった。