宗馬は軽く驚いて新田を振り返った。
(なんで急にそんな話? そんなに思い詰めてるのか?)
「……まだ入社したばかりじゃないですか。今は仕事を覚えていく時期でしょう?」
「いえ、僕が仕事を覚えるのが遅いばっかりに、先輩方に迷惑をかけてばかりなんです。浜辺さんに言われました。瀬戸さんが新人の頃はもっと色々できたって……」
宗馬は思わず瀬戸が勤務時間内にサボってゲームをしていることを教えてやろうかと思ったが、その報復でキス動画をばら撒かれる恐れがあるためそこはぐっとこらえることにした。
「人にはそれぞれ得手不得手があります。瀬戸さんはその、要領がいいというか……」
「天野さんもこないだ新規の取引先を開拓されて、すごく会社に貢献していらっしゃいます。僕の次に若い営業ってあのお二人なんですよ。それなのに僕は毎日ミスを連発して怒られてばかりで……」
一生懸命頑張っている新人のミスは上司の指導不足だと認識している器の大きい上司が、一体この日本にどれくらい存在するものなのだろうか。少なくともうちの会社の浜辺という上司がそれに当てはまらないことだけは確かであった。それは新田に限らず、瀬戸や翼以降入って来た新人営業がことごとく辞めて行った歴史が全てを物語っている。
(新人を浜辺さんに付けるのやめたらいいのに。営業の内部事情は俺には分からないから口出しできないけど)
「すみません、突然こんな話。でも僕ここで下地さんに役に立ってるって、助かってるって言ってもらえてすごく嬉しかったんです。仕事ってお金を稼ぐためにやってる側面もあるけど、やっぱりそういうやりがいがあってこそモチベーションも上がって、人生が豊かになるんじゃないかって、ようやく気が付いたような気がします」
「いやいや、それは大袈裟……」
「だから僕、正式に職種の転換を希望しようと思います!」
突然新人営業がとんでもないことを言い出したため、宗馬は慌てて全力で首を振った。
「それはやめたほうがいいですよ!」
「どうしてですか?」
「まだ現場作業一日しかやってないじゃないですか! ハッキリ言いますけど、地獄が始まるのはこれからですよ。実際既に田中さんも倒れてるのご存知ですよね? 肉体労働だしとにかく暑いんです! 営業の仕事だってこれから覚えていけばできるようになるんですから、あまり早まった判断をするべきでは……」
「僕、そもそも営業がやりたかったわけじゃなかったんです。特にやりたい仕事もなかったから、たまたま受かったこの会社で営業職に就いただけで。だから転職活動も始めてて、次の会社が決まったら本当は辞めようと思ってたんです」
やはり宗馬の予想通り、転職のカウントダウンは既に始まっていたようだ。
「でもどうせ辞めるなら、一回同じ社内で職種転換してからでも遅くないですよね? 工場で働くなんて正直考えてもみませんでしたけど、でも下地さんの下でなら働いてみたいんです!」
(ええええ~?)
絶対やめた方がいい、ともう一度諭したかったのだが、あまりにも純粋で汚れのない瞳で見つめられて、宗馬は出かかった言葉を飲み込むことしかできなかった。
◇
新田春樹は本当に上のオフィスの営業部から、工場職員として下の工場に下りて来ることになった。
「いや~、まさか新田くんが俺たちと一緒に工場で働くことになるなんてなぁ」
灰色の作業着姿で元気にリフトを操縦する新田を見ながら、高野は満足げに目を細めてそう呟いた。生鉄工業では営業は鶯色の作業着を、工場勤務の人間は灰色の作業着を身につけるのが一応の決まりとなっている。
「高野さん、彼本当に大丈夫ですかね?」
「なんでだ? 素直で真面目でよく働くし、現場としては助かってるじゃないか」
「いや、その……」
宗馬は言いにくそうに少し声のトーンを落として囁いた。
「新田さんって、まあまあいい大学出てるそうなんですよ」
「まあ、元々営業で雇われてるし、そうだろうな」
ちなみにこの会社では工員は高卒が多かったが、営業や総務など事務所勤務の人間は社長の方針で基本的に大卒しか取っていなかった。
「いや、そんな人が俺と同じ仕事どころか、俺の下に付くってどうなのかなぁと思いまして」
「本人のたっての希望なんだろう?」
「いやまあそうなんですけど……」
やはり冷静になって考えてみると、事務所勤務の方が彼も良かったとそのうち気付くのではないだろうか。それを考えると、人一人の人生をなんだか自分が左右してしまったような気がして気が重くなってしまう。
「まあそんなに深刻に考えなさんなって」
「いやでも……」
「下地さん! 作業終わりました!」
「ほらな、楽しそうじゃないか」
(はぁ~……)
宗馬はため息をつくと、リフトから降りてまるで子犬のようにこちらに駆けてくる新田に軽く手を振った。
「新田さん、大丈夫ですか? ちゃんと水分摂ってます?」
「僕に敬語を使うのはやめて下さい! 年も立場も完全に下なんで!」
(ええ~、事務所の人にタメ口って使いにくいんだよなぁ。元事務所だけど)
翼を除いて、の話だが。
「じゃあ新田さん、次はこっちの仕事を教えるから……」
「あ、僕のことは是非春樹って呼び捨てにしちゃって下さい!」
(なんかへりくだってるくせして妙に強引だな。逆に図々しく感じてきた)
「だって左野さんや右京さんのことは名前で呼んでいらっしゃるじゃないですか」
「彼らは最初から現場勤務で、しかも同じ高校出身の後輩で……いや、もういいや」
たかが呼び方一つくらいどうってことない。それで彼のモチベーションが保てるのなら、それでいいのではないだろうか。
「次って確かこっちの材料でしたよね?」
「いや待て春樹! こっちを先に……」
機会音に負けないように大声で叫んで振り返った瞬間、事務所と工場を繋ぐ階段から下りてきた人物とバチリと目が合った。
(あ……)
新規の取引先が継続的に注文をくれるようになって、翼はよく工場に下りてくるようになった。製品の進捗具合を細かく確認したり、一つ一つの製品にラベルを貼ったりと、色々やることが増えたのだそうだ。
翼は少しの間じっと宗馬を見ていたが、工場長に声をかけられるのと同時にふいっと目を逸らした。
(珍しく笑ってなかったな。お得意の作り笑いもできないくらい疲れてるんだろうか)
やはりこの暑さで翼も体力を削がれているのかもしれない。
新田に次の仕事を教えた後、もう一度工場長のいる場所を振り返ったが、既に翼はその場から姿を消した後だった。
(もう事務所に戻ったのかな……)
なんとなく、先ほどの翼の表情が宗馬の心に引っかかっていた。
(また何か上でトラブルがあったんじゃ……)
思わず階段近くまで足を運んだ時、以前と同じ場所に鶯色の作業着の端がチラッと見えた。
(デジャブ!)
どうやらまた瀬戸が工場裏で隠れてゲームをしているらしい。
(マジで懲りない人だな)
あの後、瀬戸とはたまに顔を合わせることもあったが、彼はいつも通りの態度で特に何かを要求してくる気配は無かった。それが逆に気持ち悪くもあったのだが、宗馬もあえてこちらから関わり合いになるつもりはさらさらなかったため、何事も起こらず現在に至っている。
(いやでも、今度何かに付き合わされるんだよな? 一体どういうつもりであんなことを言ったんだ?)
瀬戸と社内で二人きりになる機会などそうそう無い。宗馬は思い切って、瀬戸が座っていると思しき場所に一気に踏み込んだ。
「あっ!」