気が急いていたせいか勢いよく踏み込みすぎて、コンクリートの地面に広がった荒い砂粒に滑った宗馬は顔面から地面に倒れそうになった。
「わっ!」
ドサッと硬い体に受け止められ、ぱっと顔を上げた瞬間、切れ長で綺麗な二重瞼の下の翼の瞳と目が合った。
「あ、あれ……?」
「大丈夫?」
てっきり瀬戸がサボっているものだとばかり思って糾弾しに来たつもりが、翼の胸に無様な姿勢でダイブする羽目になってしまった。
「ご、ごめん」
「どうしたの? そんなに慌てて」
宗馬は慌てて立ちあがろうとしたが、不自然な力に引っ張られて立ち上がることができなかった。
「あれ、どうして……?」
「なんか金具が引っ掛かってるよ」
「うそ、ごめん」
「いいよ、ゆっくり外しなよ」
宗馬の作業着の上着のチャックの金具が、奇跡的な確率で翼が首から下げている社員証の紐に引っ掛かってしまっていた。
(嘘だろ? こんな所どうやって入り込んだんだ?)
焦れば焦るほど手元が狂って余計に紐が食い込んでいってしまう。
「焦らなくていいって」
「いやでも……」
「それよりどうしてこんな隅っこに来たの? もしかして俺のこと追ってきた?」
「いや、瀬戸さんが……」
「瀬戸?」
楽しげに話していた翼だったが、キラキラ営業同期の名前を聞いた瞬間に声のトーンがぐっと下がった。
「瀬戸がどうかしたの?」
「いや、こないだ瀬戸さんがここでゲームしてるの見かけて、またサボってるんじゃないかって注意しようかと思っ……」
そこまでバラしてしまってから、宗馬ははっと気がついて慌てて付け加えた。
「あ、今のは誰にも言わないで!」
「どうして?」
どうしてかって、それは報復に自分と翼のキス動画をばら撒かれるかもしれないから。
「……誰にも言わないでって頼まれたから」
「あんなやつに義理立てする必要なんかないのに。てかみんなあいつがサボってるのは知ってるから」
「え、そうなの?」
「でもあいつ浜辺さんのお気に入りだから誰も何も言えないだけ。浜辺さんもサボり魔だしね」
なるほど、事務所にはそのような力関係が働いていたのか。
「……そう言えば最近営業から職種変更した新田君って、宗馬の下に付いたんだって?」
「ああ、そうだよ」
翼の声音が再び微妙に変化したのだが、金具に食い込んだ紐を外そうと躍起になっている宗馬は全くそのことに気が付かずに上の空で返答した。
「職種転向してからまだそんなに日が経ってないのに、随分親しそうだね」
「そうか?」
「なんか名前で呼び合ってるみたいだし」
そこでようやく翼の様子がおかしいことに気が付き、宗馬は格闘していた社員証の紐から顔を上げた。
「名前で呼び合ってなんかないぞ。あいつが他の後輩たち……慎二や祐樹と同じ扱いにして欲しいって言うから名前呼びにしただけで、俺のことは先輩らしく苗字でさん付けで呼んでもらってる」
「へぇ、随分と懐かれてるんだね」
「別にそんなこと……」
不意にぐいっと肩を押され、翼の体から起き上がった宗馬はそのまま工場の壁に後頭部と背中を押し付けられた。絡まった社員証の紐に引っ張られるように、翼の顔が宗馬の顔にぐっと近づく。
「翼? ……っ!」
左の顎近くの首筋に生暖かく濡れた感触が伝わり、思わず声を上げそうになった宗馬は慌てて片方の手で口を押さえ、もう片方の手で翼の作業着の肩をぐいっと掴んだ。
「ちょっ、お前、何やってんだよ!」
翼はそれには答えず、舌を這わせた場所に唇を当てると、赤子が乳を吸う時のような強い力でじゅっと吸い上げた。
「痛っ!」
しかしそこには痛みだけでは説明できない、別の感覚も肌の表面に疼いていた。翼の肩を掴んでいる手が、押し返そうとしているのか引き寄せようとしているのか自分でもよく分からない。翼は首筋に沿ってさらに何箇所か、宗馬の感じる位置を探り当てるように吸い上げていき、その度に宗馬は快感に震えながら喘ぎ声を上げそうになるのを必死で堪えていた。
翼の手が作業着の隙間に滑り込んで胸を弄ろうとしたため、さすがにはっと我に返った宗馬は両手で翼の胸をぐっと押して二人の間に隙間を作った。
「……心配しなくても誰も来ないし、誰にも聞こえないよ」
「瀬戸さんがここでよくサボってるって話したばかりだろ」
「瀬戸が来たら見せつけてやればいいじゃん」
「俺にはそういう趣味はない」
宗馬はそっけなくそう言うと、翼の首にかかっている社員証の紐をすっと持ち上げて外した。ダラダラとくっついていないで、最初からこうしておけば良かったのだ。
「……お前、外でするのが好きなのか?」
「俺はどこでも大歓迎だよ。外も全然悪くない。スリルがあって刺激的だろ?」
(やっぱり趣味が合わないな。俺は外は落ち着かないから絶対嫌だ。キスですら本当は外ではしたくない)
こういうことは、誰にも見られる心配の無い安心できる室内で、綺麗に体を清めた状態で行うのが宗馬の理想であった。こんな屋外で、汗や工場の色々な汚染物質で汚れた状態で触れられるのなんかまっぴらごめんだ。
「宗馬も外でやるの好きなんじゃないの?」
「なんで? 俺は絶対嫌だ」
これだけは絶対に譲りたくなかった。あと……ホラー映画も。
「だって良さそうだったから」
「ちがっ! それは、ちょっとびっくりしたから……」
あながち体の相性がいいというのは間違いではないのかもしれない。
翼がまだ何か言おうとした時、ピリリリリリッ! とスマホの着信音が翼のポケットからけたたましく鳴り響いた。
「あっ、そう言えば瀬戸に社用車のキー渡すって言ってたの忘れてた」
「ええっ?」
「大丈夫。浜辺さんの昼食のお使いに行くだけだって言ってたし」
それは瀬戸が上司の機嫌を損ねることになるのではないか?
「ていうかそもそもここで何やってたんだよ?」
「ちょっと一人で考えごとしたかっただけだよ。タバコ吸わないからタバコ休憩はできないし、トイレに篭ったら迷惑だし、ここって結構穴場なんだよね。瀬戸は今ちょうど浜辺さんの用事で席外せないから、ここに来れないのは分かってたし」
体が離れた状態で落ち着いて取り組めば、絡まった問題は拍子抜けするほど簡単に解決することができた。バツの悪そうな表情の宗馬から社員証を受け取ると、翼は「ありがとう」と宗馬に笑いかけてから事務所へと戻っていった。
(……はぁ、一体何だったんだ? 仕事中に突然あんなことするなんて、あいつらしくないっていうか……)
確か翼は一人で考えごとをしたかったのだと言っていた。また事務所で何かトラブルがあって、ストレスでも溜め込んでいたのだろうか?
(てか瀬戸さんって浜辺さんのお気に入りだったのか。ということは同期の翼はそつなく仕事をこなしているようで、実は結構不当な目に遭ってたりするんじゃなかろうか? それで……)
それで、自分に対してあんなことを? 一体どうして?
(体の相性がいいって知ってるからかな? 俺とならきっと翼も満足できるから……)
体だけなら、自分でも翼が卜部に支払った額程度の価値はあるということなのではないか?
馬鹿なことだとは分かっていても、自分が求められているという感覚は媚薬のように甘美だ。体だけだと分かっていても、承認欲求が満たされるという甘い罠に囚われて、ついつい気持ちが盛り上がってしまう。
(春樹のこと、どうこう言える立場じゃないな……)
分かっているのに、宗馬はついついスマホでスポーツジムのホームページを検索していた。