自分で言うのもなんだが、宗馬は自分の体には結構自信があった。それはおそらく宗馬に限ったことではなく、慎二や祐樹、そしてのほほんとした雰囲気を醸し出している達也ですら、密かに自分たちの割れた腹筋や厚い胸筋、逞しい腕の筋肉を自慢に思っているに違いなかった。
(週五の力仕事で十分鍛えられてはいるけど、見せる筋肉を綺麗につけるにはやっぱりジムなんだよな)
「えぇ~! 下地さんジムなんか通うつもりなんですか? あえてこの時期に?」
昼休憩中にスマホで検索していると、相変わらず食欲が戻らず水ばかり飲んでいる右京が、宗馬の手元を覗き込みながらげんなりした表情でそう口にした。
「いや、別に通うって決めたわけじゃないけど、ちょっと気になって……」
「あ、分かった! 彼女できたんでしょう?」
茶化すような左野の発言に、なぜか新田がピクリと反応して宗馬の様子を恐る恐る伺っている。
「そんなんじゃないよ。ていうかモテたいから鍛えたいんだ」
「うわっ、下地さんってチャラ男発言マジで似合わないっすね。違和感しかないっす」
相変わらず腹立つやつだな。
「あ、それじゃあ今週末ボルダリングジム行きましょうよ!」
「え? それじゃあってどういうこと? 脈絡おかしくない?」
「だって下地さん、ジム行きたかったんでしょ? 俺も最近ボルダリングジム行ってみたいな~って思ってたんで、だったら一緒に行けばいいじゃないですか」
どうやら左野は、ジムと名のつく場所は全ていっしょくたにして構わないと思い込んでいるらしい。
「いや、俺はただ単に綺麗な筋肉付けたいなぁと思っただけで、壁を登りたいわけでは……」
「ボルダリングの選手みんな綺麗な体してるじゃないですか」
「今週末一回行っただけであんな風になるわけないだろ」
「ベンチプレスも一緒ですって。行きましょうよボルダリング~。筋トレするよりずっと楽しいですよ。それからついでに春樹の歓迎会もしましょうよ!」
(いや、ただ単にお前が遊びに行きたいだけだろうが!)
「は、はい! 僕行きます!」
宗馬は思わず右京と顔を見合わせた。この流れでは自分たちだけ行きたくないとは言いにくくなってしまった。
「ていうかお前この暑いのにマジで元気だな」
「慎二も当然強制参加だからな」
「行くよ。お前が登ってるの座って見てるかもしれないけど」
「せっかく金払って行くんだから登れよ。あ、工場長! 春樹の歓迎会やるんでボルダリングジム代出して下さい!」
「え、何の話?」
ガヤガヤと楽しそうに盛り上がっている後輩たちを見ながら、宗馬は小さくため息をついていた。
(やれやれ、一人でボディメイキングがしたかっただけなのに……)
「あれ、下地さんめっちゃ蚊に刺されてますよ」
「え? どこ?」
不意に右京に指摘されて、宗馬は慌ててキョロキョロと自分の体を見回した。
「首の所ですよ。何箇所か痣みたいになってますけど、痒くないんですか?」
(あっ!)
宗馬は慌てて左の首筋を手のひらでぱっと押さえるように隠した。
(翼め!)
「……うん、言われてみれば痒かったわ」
「俺は全然刺されてないんで、下地さんにその辺の蚊がみんな引き寄せられてるんですかね」
「ははは、ありがたくねぇ」
「もっと蚊取り線香ガンガン焚いた方がいいですね」
親切に蚊取り線香の箱を開ける右京の背中を見ながら、宗馬は心の中でとても他人には聞かせられないような汚い言葉で翼に対して悪態をついていた。
◇
アウトドアブランド店内の奥に併設されているクライミングジムは、一歩足を踏み入れた瞬間まるで別世界に入り込んだような非日常感を手軽に感じられる施設だった。天井が高く開放的で明るい空間内には岩場に似せた壁がそびえ立ち、ホールドと呼ばれるカラフルな人工の岩が至る所に取り付けられている。ホールドの側には数字の書かれたビニールテープが貼り付けられていて、そのビニールテープの色によってルートの難易度が決められていた。
「宗馬はクライミングジムってよく来るの?」
滑り止めのチョークを指に塗りながら笑顔で尋ねる翼の顔を、宗馬は何とも言えない表情で眺めていた。
(別にいいんだけど、これって春樹の歓迎会だったよな? 現場の)
「いや、存在は知ってたけど初めて来た。お前は?」
「俺は何度か付き合いで来たことあるよ」
「付き合いで?」
「うん、あいつの」
最後の言葉にはあまり好意的ではない響きがこもっていた。宗馬が振り返ると、キラキラ営業双璧の瀬戸がニコニコしながら近付いて来るところだった。
(そしてなんでこいつも一緒に来てるんだろう……?)
「酷いなぁ、今なんでこいつ一緒に来てるんだろうって思ったでしょう?」
「え! 今俺の心読みました?」
「いや、そんなチート能力使わなくても、宗馬顔に書いてあるから」
宗馬、と名前を呼ぶのを聞いて、翼の眉がピクリと痙攣した。
「……お前、現場の人間とそんなに仲良かったっけ?」
「俺は博愛主義者だよ」
「瀬戸さん、名前呼びはやめていただけますか。なんだか俺が落ち着かないんで」
「ええ~! いいじゃん、俺は宗馬と仲良くなりたいだけだよ」
「別に仲良くなっても瀬戸さんの案件を融通利かせたりなんかしませんよ」
そう言って翼のチョーク袋に指を突っ込んだ宗馬の首筋に、瀬戸の指がチョンッと触れた。
「ここどうしたの? なんかいっぱい絆創膏貼ってない?」
宗馬は思わずぱっと弾けるように後ろへと飛び退った。
「……げ、現場で蚊に刺されて、引っ掻いてたら酷いことになったんで」
「へえ~、そんなとこ集中的に刺すなんて、相当独占欲の強い蚊みたいだね」
(何だその含みのある言い方は! バレてるのか?)
背中に冷たい汗をかきながら宗馬が何と返そうか脳味噌をフル回転させていた時、向こうの壁の方からわっと歓声が上がった。
「お客さん、今日が初めてって本当ですか? めちゃくちゃ登るじゃないですか。僕が教えること全くないんですけど」
初心者体験パックを申し込んだ若手の左野たちが店員からレクチャーを受けていたのだが、猿並みの運動神経を有する左野は既に高難易度の壁を軽々と登っているようだ。
「ちょ、お客さん、すごい才能ですよ! オリンピックとか出たらどうですか?」
「ええ~! あの程度でそんなに褒められるの? ちょっとお兄さん、俺も登ります~」
(瀬戸さんって誰に対しても対抗意識強いんだな)
瀬戸が自分たちの側を離れたため、翼は途端に機嫌が良さそうな笑顔を見せた。
「邪魔者がアホで良かったよ」
「おい!」
宗馬は周りに聞こえないよう、翼にぐっと顔を近づけてからどすの効いた声を発した。
「見える所に跡つけるんじゃねぇよ! 周りがガキやアホばっかりだから誤魔化せてるけど、気付くやつは気付くんだから」
「そんなこと言ったって、見えない所に付けたって意味ないだろ」
独占欲の強い蚊、という瀬戸の言葉が、この瞬間とてもしっくりくるように思えた。
(そんなことしなくても七十万が溶ける心配なんてないんだけど。一体誰に向けて牽制かけてるんだよ)
それでも執着心を見せられると、こそばゆいような甘酸っぱい喜びを感じてしまう。
「あれ?」
不意に聞き覚えのあるような声が聞こえて、宗馬と翼は同時に声のした壁の方角を振り返った。
「あっ!」