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第26話 宗馬、彼と再会する

「お前は!」


 翼も見覚えのある少年の姿を見つけて目を丸くした。


「君は……」

「また会ったな、お兄さん」


 あのつけ麺屋で出会ったいがぐり頭の生意気な少年が、Tシャツにジャージ姿で壁の前に立ってこちらを見ていた。


「言っただろう、俺たちにはきっと何かの縁があるんじゃないかって」

「……君、もしかしてこの辺りに住んでるの?」


 翼が完璧な笑顔で愛想良く少年に問いかけたが、彼は翼の質問はスルーして、ギュッギュッとマットを踏みしめながら宗馬の近くまでやって来た。


「では早速勝負といこうか」

「なんで急に?」

「なんかお兄さんの顔を見るとこう、コテンパンに負かしてやらなければならないような、そんな強迫観念に襲われるんだ。そうでないと俺の存在が否定されてしまうような。一体何でだろう?」


 いや、こっちが聞きたいわ。


「なんかよく分からないけど、宗馬はそんな謎の敵対心を向けられるような人間じゃないよ。勝負だったら俺としよう。ね?」


 翼が何となく凄みの効いた笑顔で少年に提案したが、彼はチラッと翼を一瞥してからふるふると首を振った。


「いや、その必要はない。そっちのお兄さんには何も感じない。ていうか全てにおいて、俺がコテンパンにされる予感しかしない」

「ちょっと大人を舐めすぎなんじゃないですかね? まさか俺になら勝てるとでも思ってるの?」


 週五の肉体労働で自然に身についた天然物の筋肉を持つ、工場職員の自分に子供如きが勝てるとでも?


「俺の第六感がそう告げている」

「よし分かった、今すぐ勝負しようか!」

「ちょっと宗馬!」


 翼が止める間もなく、いがぐり少年と宗馬の真剣勝負、第二ラウンドが幕を開けた。


「それで、勝負ってどうやってするんだ? 俺はボルダリングは初めてでよく分からないから、お前がルールを決めてくれ」

「なんと! お兄さんは初心者だったのか。これはもう勝負あったようなもんだな。何だか悪いことをした。ハンデ付けようか?」

「いらねぇよ! むしろこっちが付けるっつの!」


 少年は少しの間壁を吟味してから、斜めに切り立った壁の一つを指差した。


「じゃあこの壁の、オレンジの三番から始めようか」

「オレンジの三番?」

「お兄さんマジで初心者なんだな。やり方知ってる?」

「いや……」

「あ、じゃあ俺が手本を見せるよ」


 そう名乗り出た翼はいそいそと壁の前に近づくと、「三」と書かれたオレンジ色のビニールテープの横に付いているホールドに両手を掛けた


「オレンジの三番って決めたから、登るのに使っていいのは同じビニールテープの横に付いているホールドだけだよ。これは中級だから、足はどのホールドを使っても大丈夫」


 翼はそう説明しながら、両手をホールドに掛けた状態で両足をぱっと浮かせ、近くにあるホールドに爪先をそれぞれ引っ掛けた。


「両足が離れたらスタート。あとは使っていいホールドだけを使って登って、ゴールのホールドに両手を引っ掛けたら完了だよ。降りる時に飛び降りないように気をつけてね。結構高さあるから」


 なるほど。どうやら好き勝手にホールドを使ってゴールを目指していいわけではないようだ。

 翼はひょいひょいっと壁を登ってゴールのホールドを両手で掴むと、ある程度下まで降りて来てから手を離してマットの上に降り立った。


「ほら、こんな感じ」

「大体分かった」

「じゃあ俺から先に登ろう。俺に続いてお兄さんも登れたら、次の難易度で勝負しよう」

「なんか仕切られてる感じが腹立つけど、まあ大人の余裕ってやつでそこは目をつぶってやるよ」

「子供相手にムキになってる時点で、大人の余裕もクソも無いんだけどね」


 少年は勿体ぶった様子で少しの間じっと壁を見つめていたが、ルートが決まったのか玄人っぽく偉そうに頷いてから、ゆっくりとホールドに両手をかけてクライミングをスタートさせた。


(へぇ……)


 少年の身長はパッと見百六十センチほどで、翼に比べるとだいぶ手足は短い。しかしそれでもゆっくりではあるが、確実に一歩一歩ホールドに手をかけてゴールに近付いている。


(一応見かけ倒しの自信ってわけじゃなかったみたいだな)


「ほら、次はお兄さんの番だ」


 ゴールのホールドを掴んで降りて来た少年は、自分が登り切った壁をクイッと顎で指して見せた。行動の一つ一つがいちいち鼻につく。


(一体どんな教育を受けたらこんな生意気な子供が出来上がるんだ?)


 宗馬は内心呆れながら、スタートのホールドに両手の指先を掛けた。そのままグイッと次のホールドに向かって腕を伸ばす。


(……あれ?)


 翼も少年も簡単そうに登っていた壁だったが、ホールドに指先だけを引っ掛けて移動するのは思いの外難しいことが判明した。


(くっ! 前腕に結構くるぞ。せめてもっと手のひらも使って掴めれば……)


 無理な体勢で上のホールドを掴もうと右手を伸ばした瞬間、左手が滑ってそのまま爪先も踏み外し、宗馬は張り付いていた壁から後ろに思いっきり倒れ込んだ。


「うわっ!」


 マットに背中から叩きつけられると思った刹那、後ろで見ていた翼ががっしりとした胸板で仰向けに倒れそうになった宗馬の体を支えてくれた。


「大丈夫?」

「あ、ごめん……」

「この壁はこっち向きに傾斜が付いてるから、初心者にはちょっと難しいんだよ」


 腑が千切れそうなくらい悔しかったが、見事なほどの惨敗であった。


「……今回は俺の負けだ」

「よく考えたら前回も俺の方が多めに食べてた気がするけど」


 確かにそうだった。


「まぁ初心者相手に俺も大人気なかった……」

「ちょっと明! あんたこんな所で一体何やってんの?」


 突然甲高い女性の声が聞こえて、今しがた男のプライドを賭けた勝負を終えたばかりの二人は思わず飛び上がった。


「あ、母ちゃん」

「小学生用の壁はあっちなのよ! 大人の邪魔しちゃダメでしょ」


(小学生!?)


 宗馬は思わずポカンと口を開けて翼と顔を見合わせた。


「君、小学生だったの?」

「小五だけど」

「へぇ……背ぇ高いんだな」


 あと老け顔なんだな。


「まあ小学生の身長なんて個人差大きいからな。今は俺がクラスで一番大きいけど、この先もっと伸び続けるのかなんて保証は無いから、今の地位に甘んじてる訳じゃないぜ」


 そして発言もなんか子供らしくない。


「まあでもクラスの女にモテるには……」

「明! 早くこっち来なさい!」

「分かってるって!」


 いがぐり頭の少年、明は最後にもう一度宗馬の方を振り返った。


「じゃあなお兄さん。ババアがうるさいから俺はもう行くぜ」

「お母さんのことをババアとか言うもんじゃない」

「お兄さんとはきっとまた会う気がするんだ。その時はまたよろしくな」

「うん、なんか近所に住んでるっぽいしな」


 明はギュッとマットに踵をめり込ませながら踵を返すと、後ろ向きにヒラヒラと手を振りながら小学生用の壁の方へと去って行った。


「……十分大人用の壁登れてたじゃねえか」

「一応この施設の決まりだからね」


 その時になって初めて宗馬は翼に支えられたままだったことに気が付き、慌てて厚い胸板からパッと背中を離した。


(ずっとくっついたままだったなんて!)


 社員証が引っかかってしまって不可抗力が働いた前回とは違う。一度体の関係を持った相手とはパーソナルスペースが狭くなるというが、人前にも関わらず無意識にこの距離感はまずい気がした。


(しかも俺は記憶にございません、な状況なのに!)

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