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第264話 壺の中の桃源郷

 玄奘は目の前の川をぼんやりと眺めていた。


 絵に描いたように美しい川だ。


 日の光を受け水面はキラキラと煌き、せせらぎの音に乗せて鳥たちの囀りが響いている。


(なんと清々しい……) 


 玄奘は目を閉じて自然の音に耳を澄ませた。


 透き通るせせらぎの音に、疲れ切っていた凝り固まっていた心がほぐれていくようだ。


 でも。


 瞼の裏に孫悟空の姿が浮かび、チクリと胸が痛み、心が重く沈んでいく。


「……」


 玄奘は目を開いて俯いた。


 彼は孫悟空を破門したことを後悔していた。


 時は戻せない。


 口から吐いた言葉は取り消せない。


 玄奘の態度は孫悟空をひどく傷つけただろう。


 破門を告げた時のあの時の孫悟空の表情が頭から離れない。


 弟子を育てることの難しさと、師としての自分の器の小ささ至らなさに、玄奘は恥ずかしくてたまらなかった。


「今更後悔などしても遅いというのに……」


 そう呟いて、それでも後悔ばかりの玄奘が大きなため息を吐いたその時だった。


「おぼうさまだ!」


 静寂を破る、溌剌とした子供の声が聞こえてきて、玄奘は弾かれたように顔を上げた。


 と同時に、とん、と軽い衝撃を膝に受ける。


「おぼうさまだあれ?どこからきたの?」


 驚いた玄奘が膝の方にに目を向けると、人懐こい笑顔を浮かべた小さな男の子が、玄奘の顔を見上げて首を傾げて言った。


「どこって……?」


 玄奘が辺りを見回すと、そこは宝象国の街中にいたはずなのに全く違う風景。


 今自分がいる場所が現実なのか、夢なのかわからずに玄奘は混乱した。


「おぼうさま、あそびましょ」


 混乱している間に子どもがさらに一人増えた。


 今度は男の子よりも少し背丈の高い年上の女の子だ。


「あそびましょ」


 女の子の言葉を真似して男の子が言う。


 顔立ちがよく似ている二人は姉弟なのだろう。


 身なりも綺麗だし、着物の生地も上等なものに見えたので、おそらく名家の子どもたちなのだろう。


「え……っと、その……」


 そう考えた玄奘は、彼らの従者などはそばにいないのかと玄奘はあたりをキョロキョロと見回した。


「これ、月華ユエホア星星シンシン、お坊様が驚いていらっしゃるでしょう?」


 玄奘が子ども二人に戸惑っていると、低く柔らかな女性の声がした。


「おかあさま!おぼうさまよ!」


「おかさま!おぼーさまよ!」


 二人の子供は母親に駆け寄って行った。


 母親は子どもたちの頭を撫でると玄奘に一礼をした。


 女性は薄水色の、光沢のある上等な絹をまとい、煌びやかな装飾品で着飾っている。


「はじめましてお坊様。わたくしは百花。この子たちは月華と星星ですわ」


 上品な佇まいに普通の街の人とは違う雰囲気をに、玄奘は数年前に師僧から宝象国の美姫、百花公主ひゃっかこうしゅの名を聞いたことを思い出した。


 10年前ほどから行方がわからなくなったと言う公主の話は遠く唐の都にまで届いていた。


「百花って、もしかして宝象国の……」


「はい。わたくしはかつて公主と呼ばれる身分にありましたが、今はただの百花にございます。わたくしはただの人であり妻であり母なのです」


 呟いた玄奘の言葉に百花が言った。


「お坊さま、あなた様の名をお伺いしてもよろしいですか?」


 問われて玄奘はハッとして姿勢を正した。


「はじめまして、私は玄奘といいます。あの百花様、ここはどこでしょうか……?私は先程まで宝象国の街中にいたと思ったのですが」


 玄奘が言うと、百花はクスクスと笑った。


「ここは世界で一番安全な場所です。わたくしと、夫と子どもたちの、家族の大切な世界……桃源郷のようなものですわ」


 愛おしそうに子どもたちの頭を撫でながらいう百花に、玄奘は戸惑った。


「あの……では、ここは宝象国ではないということでしょうか」


「いえ、ここは宝象国の端にある、とある骨董屋の壺のなかですわ」  


「え?壺……ですか?!」


 百花の言葉が理解できなくて、玄奘は首を傾げおうむ返しをした。

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