突然の父親の死に動揺するかのえを落ち着かせた花は、佐崎と共に帰途へ着いた。
容疑者である緑小路を除けば第一発見者である侍女の証言から、帰宅許可が出た佐崎は、追手が来ていないか神経を尖らせながら馬車を走らせ、急ぎ屋敷へと向かう。
「かのえさん、大丈夫かしら」
「鈴木さんが付いています。危険はないでしょう」
精神的な部分は、わからない。
花もできればかのえの傍に居たかっただろうが、彼女の立場は第一容疑者の娘である。迂闊に関わろうとすれば捕縛の対象になりかねない。
「お父様も、大丈夫よね、佐崎」
「ええ、旦那様は重要参考人となりますが、まず問題はありません」
気休めだ、と佐崎は自分の言葉の白々しさに腹が立った。
花が「そうよね」と返した言葉には、自分への気遣いすら含まれているようで、居た堪れない。
「屋敷に着きましたら、旦那様が戻られるまで屋敷から外出なさりませんよう」
「佐崎はどうするの」
留守番を命じるような口ぶりに花が疑問を呈すると、佐崎は歯を食いしばる。
「状況を確認してまいります。可能であれば、現場を見て旦那様に有利な情報を集められたなら尚良いでしょう。少なくとも、座して待つわけには参りません」
「危なくない、のね」
不安げな花の表情に、自分が焦っていることを知り、佐崎は一度目を強く瞑って、見開いた。
「ご安心ください。何者の仕業かはわかりませんが、毒殺などを目論むあたり、真正面に出てくる肝は持ち合わせておりますまい」
「毒……もしかして、お父様も……」
花の不安もわかるが、ここで佐崎までもが不安を煽るような言葉は吐けない。言霊などと言うつもりはないが、少なくとも花を徒に追い詰める必要はない。
佐崎自身、むしろ警察が介入することで安全となる可能性も考えていた。
「旦那様を狙っていたわけではないでしょう」
佐崎の脳裏にはほんの数秒目にしたのみだが、六座岸良が事切れていたあの部屋の光景が残っている。
「旦那様が好んで飲まれるような酒はありませんでした。敵の狙いは六座さまであったことは間違いないかと」
あるいは、六座を始末することで緑小路の立場を弱めることを狙ったのかも知れない。緑小路が容疑者として拘束されている間に、何かを狙っている可能性はある。
とはいえ、何らの証拠も無い状況であり、捜査をすれば緑小路への疑いは容易に晴れるだろう。華族という立場を利用するのは心苦しいが、確たる証拠がなければ罪に問うのは難しい地位にあるのも大きい。
恐れるべきは拘束中の暗殺だが、先ほど花に説明した通り、その気があれば六座と共に手を下していただろう。
「旦那様を殺害する理由は、今の下手人にはないはずです」
緑小路が動けない状況を作り、その間に動くことを狙うとすれば、乱を企てている連中が政府の動きを鈍らせるための工作ともとれる。
しかし、考えてみれば数日程度一部の政府要人を足止めしたところで、大きな影響は出ないのではないだろうか。
もっと個人的な、緑小路不在であれば可能な何か。
「……警戒が必要ですね」
佐崎は、この状況を作った人物の狙いは緑小路屋敷であると踏んだ。
馬車が屋敷に到着すると、佐崎はすぐに津賀野を呼んで状況を説明し、花の身辺護衛を厳にするよう伝えた。
「私は、六座邸に戻り状況を確認します。下手人が何かしらの痕跡を残しているのであれば、こちらから動くことも可能でしょう」
今は警察も信用できない。できるなら現場検証を見届けておきたいところであった。
「現地には鈴木さんがおられます。彼が目を光らせているのであれば、もし警官に不届き者が居ても掣肘は可能でしょう」
本心としては、その鈴木の動きも見極めておきたい。
「馬車は残しておきます。万が一の時は、お嬢様を連れて逃げるためにすぐ使えるようにしておいてください」
「心得ました。お気をつけて」
花の肩を抱いて一礼した津賀野に、慌てた様子はない。落ち着いて状況を受け止めているようで、佐崎は一つ安心材料を見つけた。
「佐崎……」
「お嬢様。津賀野さんは屋敷でも特に実力ある人です。どうか彼女の近くから離れないようにしてください」
緊張の面持ちで頷いた花は、再び屋敷を出ようとする佐崎に声をかけた。
「かのえさんを、お願いね。今一番傷ついているのは、彼女のはずだから」
「かしこまりました。お嬢様のお気持ちは必ずお伝えいたします」
ネクタイを整えた佐崎は、髪を撫でつけたかと思うと、通用門を抜けて風のように駆けていく。馬を使うより、裏道を走って抜けていく方が早いと踏んだのだ。
「まるで、つむじ風みたいね。ぴゅう、と駆けて、あっという間に見えなくなってしまったわ」
花がぽつりと零した感想に、津賀野はぴくりと震えた。
一呼吸おいて、津賀野は苦笑いで答える。
「ええ。あれで、私の倍以上の年齢とは思えません」
「そういえば、佐崎はいくつなのかしら」
「三十を少し超えた程度、と聞いたことがあります」
本当は、佐崎の素性を知ってから調書を呼んで知ったことだが。
つまり、佐崎が幕末の時代に斬り合いの世の中を駆け抜けていた頃、自分と大して変わらない年齢だったのだと津賀野は改めて思い知る。
「お嬢様。屋敷に入りましょう。他の者たちに屋敷の周囲を警戒させますので、安心してお休みください」
「眠れる気がしないわね……」
「気持ちが昂っているからでしょう。何か温かいものをお飲みになられると良いでしょう。お身体は疲れているはずですから、横になられたらいつの間にか眠っていることでしょう」
説明する津賀野を、少しだけ背の低い花がじっと見上げている。
「詳しいのね」
「……わたしも、先日似たような状況になりましたので」
初めて命の奪い合いをした日、津賀野も不安や焦りのような心持を抱えて、眠る気にならなかった。
しかし、自室に戻る前に佐崎が言ったことを思い出し、白湯を飲んで布団に入ったら、いつの間にか眠ってしまっていたのだ。
「目を閉じて、ゆっくり息を吐いてください」
「それだけなの」
「それだけです。不安はおありかと思いますが、わたしたちを信じてお任せください」
わかった、と頷いた花は津賀野に伴われて自室へと入った。
しばし扉の前に立っていた津賀野は、室内から押し殺した泣き声が聞こえてきたのを黙って聞いていた。
まだ少女と言って良い年齢で、父親がこのような陰惨な事件に巻き込まれている状況は耐え難いものがあるだろう。
ほどなく、泣き疲れて眠っているのを確認した津賀野は、花に毛布を掛けた。
「……さて、わたしも準備をいたしましょう」
津賀野は別の使用人に声をかけて少しだけ部屋を離れ、自室へと戻った。
長持を開き、中にある打ち刀を見下ろす。
しばらくじっと見つめていたが、結局は手に取ることなく、部屋の片隅に立てかけていた杖を手にした。
二度、三度と軽く振るう。
佐崎に斬りつけられたものとは別に、新たに用意したものだ。
真新しい樫の杖は、使い込んで濃く色づいたものと違い、軽そうに見える。だが、その鋭い突きは強烈であり、殴りつければ骨を折る威力であることは変わらない。
刃こそついていないが、場合によっては致命傷を与えることもできる。
使い方によって、ということで相手に大きな傷を負わせずに捕縛することにも向いている。津賀野は刀より杖を好んだ。
幼い頃より慣れ親しんでいることもあるが、自在に操ることで様々な状況に対応できる杖を信頼しているのだ。
人を斬る覚悟がないと余人は考えるかも知れない。
むしろ、津賀野は初めて敵の命を奪う以前であれば、その評価を甘受していただろう。
今は逆だ。
大切な人を守るためであれば、杖の技術を以て相手の命を奪う事も躊躇しない。
ただただ、今の状況であれば杖が最善であり、本当に大事な場面で一番頼りになるのも杖であるというだけだ。
「……良し」
メイド服のままではあるが、彼女にとって問題は無い。
佐崎の代わりに屋敷内を回って指示を出し、旦那様が戻らないということだけを伝達。今夜は佐崎が居ないから特に周囲の警戒をするように、と伝えて回った。
襲撃の可能性を示唆すると、使用人たちに余計な緊張を与えてしまうからだ。
一通りの準備を終え、津賀野は花の自室前へと戻ってきた。
そっと中の様子を伺い、花が眠っていることを確認する。
「何も無ければ良いのですが」
花にとって、この数日は苦労の連続であった。できれば静かに健やかな日々を過ごして欲しいと津賀野は思っているのだが、現実はなかなかうまくいかない。
歯痒いが、戦えるだけ自分は幸運だったと感じている。
もし守られるだけであったなら、無力感でどうにかなってしまっていたかも知れないからだ。
「少し、落ち着きましょう。気を張っていては疲れてしまいます」
自分に言い聞かせ、津賀野は杖を小脇に抱えるような姿勢で肩の力を抜いた。
長い夜になる。
薄暗い廊下で、津賀野は一人、静かな番人となった。