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第21話 再会

 八重咲きの艶やかな紅椿がゆらゆらと大きく揺れる。暖かな花散らしの強風が吹き荒び、紅の蕾がぼとりと一つ地面に落ちた。


 笹野屋永徳は、独り墓地を訪れていた。癖のある伸びかけの黒髪が風に煽られ、視界を塞ぐ。眼前に張り付いた前髪を、片手でかき上げながら、永徳はポツリと呟いた。


「君がこの世を去ってから、もう二十年以上経ったのか。早いものだねえ」


 目の前の墓石に声をかける。すでに家族が墓参りに来たあとのようで、花立には菊の花が供えられていた。永徳は自分の持ってきたキンセンカの茎を折り、菊が映えるようにそれを生ける。


「おや、困ったな。マッチを忘れてしまった」


 わざわざ買いに行くのも面倒だ。あたりを確認し、人がいないことを確認すると、永徳は自分の右手を線香の先端に添えた。すると瞬く間に火が上り、白檀の香りがあたりに立ち込める。


「これでよし」


 膝をおり、線香を香炉に置く。手を合わせてしばらくして、墓に向かって独り言のように呟いた。


「人間の女の子がうちの職場に来たんだ。君と同じように、生真面目な子でね」


 永徳は視界を地面に落とし、鼻から短く息を漏らす。


「……うまく、社会復帰できるといいのだけどね。彼女のいるべき場所に」

 いつの間にか空は厚い雲に覆われていた。生暖かい風に雨粒が混じり、永徳の頬を濡らす。


「おやおや、降ってきてしまったか。……では、また来るよ」


 手桶と柄杓をもとの場所へ戻し、永徳は墓地の出口に向かう。寺の門扉をくぐった先で、彼の姿は忽然と消えた。


   ◇◇◇


 帰宅時間ラッシュのJR鶴見駅前。家路を急ぐ人たちや駅前のスーパーへ向かう人たち、仕事帰りの一服に居酒屋へと向かう人たちが入り乱れている。住宅街がメインの街ではあるが、海沿いの工場地帯へ伸びる鶴見線があり、三浦半島方面に伸びる京浜急行鶴見駅も徒歩圏内にあること、都心へのアクセスの良さもあって、JR鶴見駅の乗車人員は桜木町駅の上を行く。


 文房具屋に用があった佐和子は、永徳の屋敷からの帰り、駅前まで歩いてきたのだが。人混みを見るとサラリーマン時代を思い出し、胸がつかえるような苦しさに支配された。


 ——この時間にここへ来たのは失敗だったな。この間笹野屋さんと来たときは、ラッシュ前だったもんね……早く、帰ろう。


 あやかし界の仕事とはいえ、働き始めたのにも関わらず、トラウマに囚われたままの自分に嫌気がさし、自然とため息が漏れた。


 本当はスーパーにも寄るつもりだったのだが。元々の用事だけを手短に済まし、バスロータリーへ降りる階段の方へとぼとぼと歩き出す。階段を降り始めたところで、突然背中に衝撃が走った。


 ——いたっ。えっ、なに?


 普段だったら踏みとどまれたかもしれない。しかし思考に耽っていたせいで反応が一拍遅れた。階段から足が滑り落ち、体が浮遊感に包まれる。


 背後からおしてきた相手の姿を確認することもできぬまま、声を出すこともできず、地面に向かって真っ逆様に落下していく。


 こういうときはどうすれば生存確率が上がるのだろう。受け身を取ればいいんだろうか。受け身ってどう取ったっけ。ああ、体育の柔道の授業、もうちょっと真面目に聞いておけば良かった。


 くだらない後悔がぐるぐると頭をめぐる。しかし体は動かない。

 地面にぶつかる衝撃を覚悟した瞬間、視界にグレーの背広姿の男性が飛び込んできた。


「うおっ」


 うめくような声が聞こえて、視界が回転する。しかし思ったような衝撃は来ず、地面をゴロゴロと転がる鈍い痛みを背中に感じるだけで済んだ。周りを確認するだけの余裕が戻ってきたところで、自分が背広の男を下敷きにしていることを認識した。どうやら彼が階段上から振ってきた佐和子を受け止めてくれたらしい。


「ご、ご、ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか? ありがとうございます、助けてくださって……」

「いや、たまたま通りかかって良かった。あのまま落ちてたら大怪我してたよ」


 背後からドタバタと足音が聞こえる。振り返れば白髪の女性が階段を駆け降りてきていた。


「ごめんなさい! あなた、大丈夫?」


 佐和子の少し後方にいた彼女は階段上で躓き、買い物袋を佐和子に向かって落としてしまったのだという。平謝りする女性の背後を見れば、野菜や肉のパックなどが散乱していた。狼狽する女性を宥めつつ、佐和子は散乱してしまった買い物袋の中身を拾い集める。助けてくれた男性も一緒に手伝ってくれたのだが、なんだか彼から視線を感じた。


「ねえ、もしかして佐和子ちゃん?」


 名前を呼ばれ、顔を上げれば、視線が交錯する。そしてようやく気がついた。自分も彼を知っていることに。


「あ、やっぱ佐和子ちゃんじゃん! ひさしぶりー! 俺だよ俺、山吹!」


 クッキリした二重に、浅黒い肌。ぼんやりとではあるが、頭には彼に似た学生の顔が頭に浮かぶ。


「山吹くん……って。あの、横浜青嵐高校の山吹くんだよね?」

「そうそう! 隣のクラスで、たまに廊下で話してたの覚えてる?」


 サッカー部のエースだった山吹将は、おとなしい佐和子とは正反対の活発なタイプで。常に人の輪の中心にいるような、社交的な人物だった。学生時代は少し長めで前分けだった髪型が、スポーツ刈りになっていること以外、見た目はそう変わらない。


 ——大人になっても溌剌とした感じは変わってないなあ。……人生楽しいんだろうな。


「佐和子ちゃん髪染めたんだー。黒髪ショートのイメージが強かったからさ。肩まである茶髪ってなんか新鮮。服装は相変わらずおとなしめな感じだけど。制服も着崩したりしてなかったもんね、佐和子ちゃんは真面目ちゃんだったし」


 勢いよく楽しげに語る山吹に、佐和子は思い切り気圧されていた。大怪我するところを助けてくれたのだから、愛想良くすべきだろうとは思いつつも、相手のあまりの勢いに逃げ腰になってしまう。


「いやー、懐かしいなあ。体は大丈夫……そうだよね? もしよかったら飲みに行かない?」

「え、あ」


 ——廊下で話してたって言っても、私この人とそこまで仲が良かった記憶、ないんだよなあ。どうしよう。


 昼過ぎから降り始めた雨はすでに止んでいたが、湿った空気の中誰かと飲みに行くというのも気分的に嫌だった。ただ、せっかく誘ってくれているのに、大した理由もなく断るというのも申し訳ない。


「少しなら大丈夫。危ないところを助けてくれたし、私おごるよ」

「え? いいよいいよ! おごりだなんて。同級生との再会記念飲みってことにしよ? 駅前のおすすめのところがあるんだけど、どうかな? スペインバルなんだけど」

「うん、任せるよ」


 キラキラとした陽のエネルギーに満ちた山吹は、佐和子には眩しすぎて。決して威圧的な態度を取られているわけではないのに、尻込みしてしまう。


 買い物袋の女性に別れを告げたあと、たどり着いたのは東口に残る昔ながらの商店街。その中でも比較的新しい個人店が並ぶエリアだ。


「ここだよ。大学のときの友達がやってる店でさ」

「へええ」


 人間二人が横に並んだくらいの幅しかない、奥に長いウナギの寝床のような店内。作り付けのカウンターに、椅子が十脚置かれている。すでに半分くらいが埋まっていて、なかなか盛況なようだ。


「おう、山吹。また来てくれたのか。今日は彼女連れ?」

「ちげーよ。同級生。たまたま駅で会ってさ」

「珍しいじゃん。こんな早い時間に」

「今日は出先から直接帰ってきたから」


 山吹とドレッドヘアーの男性店主の親しげな会話を聞きつつ、佐和子は縮こまりながら勧められた席に着いた。本当のことを言えば今すぐ帰りたい。元来人付き合いの良い方ではないので、なにを話したら良いのかもわからなかった。


「で、佐和子ちゃんは今仕事なにしてんの?」


 色素の薄い、茶色い瞳が佐和子を覗き込む。いきなり話の矛先がこちらへ向き、身構えた。


「え、仕事……?」


 一応仕事はしているが、まさか「あやかし瓦版」の編集部で働いていると言うわけにはいかない。


「あ、ちなみに。俺は今ね、不動産会社のマーケティング部で働いてて」

「そうなんだ。私も……」

「え、マジか。佐和子ちゃんもマーケ? そーなんだ、めっちゃ奇遇じゃん!」


 もごもごと口籠もっている間に話が進んでしまった。コミュニケーションのうまい人というのは、音楽でも奏でているように、どんどんと流れに乗って話題を進めてしまう。佐和子はどうも、そのタイプの人間が苦手だった。そういう「流れ」に乗るのが不得手だからだ。


 ——本当は、「前の会社で」私もマーケティングをやっていた、って言いたかったんだけど。


「そっかそっか。マーケ楽しいよね。俺さー。今新規のプロジェクトの担当してて」


 そこからしばらく、山吹はいかに今の仕事が楽しく、自分が活躍しているのかを、悦に入って話し続けた。新卒で入社した当時は営業だったらしいが、将来性を買われてマーケティング部に異動が決まったらしい。それ以降も次々実績を残した彼は、ついに期待の新プロジェクトの担当まで任されたのだとか。


 愛想笑いで相槌を打ちつつも、自分と似て非なる彼の状況に、心の中では卑屈な気持ちが頭をもたげていく。


 ——私だって必死に頑張っていたけど。……なにが彼と違ったんだろう。


 山吹が羨ましかった。自分もこんなふうに努力を認められたかったのに。

 佐和子はカウンターテーブルの下で、両手をぎゅっと握りしめる。


「山吹くん、ごめん。私そろそろ帰らないと。今日はホントありがとうね」


 会話が途切れたところを見計らい、佐和子はそう山吹に声をかける。笑顔を繕うのが疲れてしまった。そんなに飲んでもいないはずなのに、こめかみが痛む。


「え、あ! もうこんな時間か。悪い悪い。ねえ、もしよかったらさ、連絡先交換しない?」

「あ、うん……」


 気が進まないながらも佐和子はスマホを取り出し、自分のアカウントのQRコードを映し出す。こんなふうに誰かと連絡先を交換するのは、ひさしぶりだった。少なくとも人間とは。


「また飲みに行こ! って言っても、俺も結構仕事忙しくて。なかなか誘えないかもだけど。じゃあね!」


 嵐のような人だ、と佐和子は思いながら、駅の方へ消えていく彼の背中を見送った。


「……私も、もっと頑張らなきゃ」


 せっかく仕事に前向きになり始めたのだ。過去はもうどうにもならないが、今は永徳から「人間編集部員ならではの価値」を求められている。編集部の面々とも、少しずつではあるがコミュニケーションを取れるようにもなってきた。


 ——もっともっと努力して、少しでも早く一人前になろう。


 アルコールでほてった頬を両手で軽くたたき、佐和子は夜の闇の中を歩き始める。風は生温かく、雨の残り香をまとっていた。



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