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〈第二幕〉消えた王子の奪還作戦

第1話 プロローグ

最高位の賓客をもてなすにふさわしい、きらびやかなゲストルーム。

大理石の白い床の上には、独特な模様の敷物が幾重にも敷かれ、部屋の四隅には犬のような動物を模ったオブジェが設置されている。


床に座る文化があるのか、ソファーではなく、硬くて厚みのあるクッションのようなものがいくつも置かれている。それを椅子がわりにしているようだ。


そして特徴的なのは、壁にいくつもかけられたタペストリ。オレンジ色の布に、輝く太陽をモチーフにした紋章が刺繍されたそれは、壁のあちこちにかけられている。


だがこの豪奢な客室には、不似合いなものが一つだけある。


頑強な鉄格子だ。


「そろそろ契約書にお名前をお書きになる決意は固まりましたか?」


スクエア型のメガネをかけた、いかにも真面目そうな女が尋ねる。


「誰がサインなどするものか。早くここから出せ! いつまで閉じ込めておくつもりだ、国際問題になるぞ。私が失踪してグラジオもロベリアも大騒ぎになっているだろう」


金髪の男は、忌々しそうに吐き捨てた。


だが軽蔑の眼差しを向けられても女は動じない。薄い唇が弧を描き、侮蔑の笑みを浮かべた。

闇色の長い髪に、夜空を切り取ったような濃紺色のドレス。控えめだが上品な雰囲気を持つ彼女は、肌艶の若さに似合わず、落ち着いた雰囲気をまとっている。


「ええ、大騒ぎになると当方も思っておりました。むしろ、それを狙っていたのですがね」


男の眉がぴくりと動く。


「騒ぎになっていないだと?」


「左様です」


「そんなわけがない。一国の王子が消えたのだ。少なくとも、メンシスの騎士たちが騒がないはずは……ロベリア側も、花婿が消えて何も言わぬことはあるまい」


眉を顰め、信じられないという表情をしながらも、男の顔が翳る。


だが言われてみれば、いくら時間が経っても、警備兵の表情に緊張が走る様子もなく、たびたびやってくるこの女の表情に焦りが見えた試しもない。


「ロベリアの姫とは、あなた様のお兄様が結婚されることにしたのかもしれませんね。命を投げ打ち、最強の剣を携え、これまでいくつもの戦いを制して来られたというのに。平和な時代が来れば、最強の剣士はお払い箱というわけです。政治に関してはお兄様の方が優れているともっぱらの評判ですし」


「……私は」


それまで威勢の良かった男の声は、消え入りそうなほどに小さくなった。

それを見た女は、満足げに微笑む。


「おかわいそうなアラン様。わたくしをはじめ、マーブレの面々はアラン様の価値を一番に理解しておりますよ。薄情な国など捨ててしまいましょう」


「……出ていけ」


「よく聞こえませんね。もう一度おっしゃっていただけますか?」


「目障りだ、出ていけと言っている!!」


アランは床に置かれたクッションの一つを、乱暴に掴み取り、女に向かって投げつけた。しかし鉄格子に阻まれ、それは彼女にかすることもなく、床に落下する。


「強情な方ですこと。まあ良いでしょう。またお顔を拝見しに参ります。ああ、食事だけはしっかりと摂ってくださいませ。死なれては困りますので」


アランに背を向け、カツカツと音を立てながら女は部屋の出口に向かう。警備兵が扉を開け、彼女は控えていた従者とともに廊下へと出た。

扉が閉まるのを確認すると、細身の黒いスーツを着た従者に向かって彼女は囁く。


「偽のアラン王子夫妻がこちらへやってくるとなれば、本物をここに置いておくのは危険です。アラン様には何か最もらしい理由を話して別の場所へ移送いたしましょう。アニタ、手配を。くれぐれもアラン様には、代役が国でうまくやっていることを悟られないように」


ピシリと前髪を撫でつけた従者は、彼女の指示にまっすぐな礼で返す。


「かしこまりました」


「偽物の化けの皮を剥ぐ策も考えなければなりませんね……。ロベリアとの親善試合をやり切ったところを見ると、剣に関しては相当な腕前の持ち主なのでしょう。となれば、別の方向性で失態を誘うか。あるいは——」


「いっそ不慮の事故に見せかけて殺してしまうのはどうでしょう。その後身元を確認する手も——」


従者の男の物騒な提案は、回廊の奥からやってきたもう一人の従者に遮られる。


「火急の要件です。お確かめください」


手渡された手紙を、メガネの女は確かめる。そして目をみはると、邪悪に笑った。


「へえ。王子の身代わりは女……面白い冗談ですね」


・・・


「求められていない第二王子……か」


これまで何度も体当たりし、力づくで曲げようとしてきた鉄格子に寄りかかり、そのままずるずると床に腰を下ろす。


アランは壁を仰ぎ見て、深いため息をついた。


「こんな惨めな思いをするならば、いっそ戦場で死ねば良かった」


惨めさと悔しさに苛まれ、気づけばギリギリと歯軋りを立てていた。


もう誰にも利用されたくない。

鍛え上げたこの腕も、肩書きも、自分に関わるもの全て。


瞼を閉じ、守り続けた母国の姿を思いだす。

美しい我が国グラジオ。ともに刃を掲げ戦場を駆け抜けた同胞たち。自分を讃え、憧れの眼差しを向けてくれた愛しい国民たち。


懐かしいその情景も、すべて皆過去のものになってしまったというのか。


長く続いたロベリアとの小競り合いも終わった。マーブレが軍備を拡張しているが、緊張関係に発展するような危機的状況にはないとグラジオ王はたかを括っている。


第二王子が失踪して見つからないのであれば、後継者問題が片付いてちょうどいいとでも思っているのかもしれない。


「政治に優れた兄上の時代、か」


ふと、苦笑が漏れる。乾いた笑いだった。


平和な時代に凶暴な第二王子は不要。政略結婚の駒としても使えなかった自分はきっと見捨てられてしまったのだ。

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