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【第4話】夏季慰労会の幹事を引き受けた二人(1)

 六月も終わりの頃、デスクワークをしていた柚羽の元に誰かが近づいて来た。その瞬間、何だか背中がゾクッとする感覚に襲われた。

(嫌な予感がする……!)

 柚羽は何となく、背後から近づいて来た人物が誰だか分かったような気もしていた。

「三塚さん! 頑張ってるねぇ、偉いなー」

 声の主は、柚羽が苦手とする屋代だった。

 椅子に座ったまま後ろを振り向く。すると、屋代は柚羽の頭をポンポンと軽く叩きながら、にこにこ笑っている。その無邪気な笑顔に、柚羽はますます不快感を覚えた。

(セ、セクハラだからな!)

 思わず唇を噛み締める。心の中では抗議の声が響いているが、実際には何も言えない自分がもどかしい。

 周りの同僚たちも、ちらちらと様子を伺っているのが分かるが、誰も何も言おうとはしない。次第に居心地の悪さが増していく。

「屋代さん、そういうのやめた方がいいですよ。セクハラで訴えられますから」

 その時、資料のコピーをして席に戻って来た千隼が、屋代に冷静に告げた。屋代は少し驚いたように目を丸くし、眉をしかめて千隼を見る。

「そうなの?」

 屋代の隣に立っている千隼は一瞬ためらいながらも、毅然とした態度を崩さずに続ける。

「はい。相手が嫌がったら、全てセクハラみたいですよ」

 千隼は冷静に対処して、周囲にいる他の同僚たちも静かに頷く。柚羽は、少し心が軽くなった気がした。自分一人ではないのだと感じ、少しだけ勇気が湧いてくる。

 屋代はしばらく考え込むように黙っていたが、やがて態度を変え、ニヤリと笑った。

「まあ、ほんのスキンシップの挨拶だよ。セクハラなんて、そんなつもりじゃなかったんだけどね。ごめんね、三塚さん」

 ヘラヘラと笑いながら返されたその言葉に、柚羽はますます苛立ちを覚えた。冗談で済む問題ではないのに、屋代の軽薄さが許せなかった。彼の笑顔は、まるで自分が言ったことの重さを全く理解していないかのように見える。

「屋代さんは外国暮らしが長かったと聞いています。でも、ここは日本ですから、スキンシップはほどほどにしないと。三塚さん、怒ったら怖いですからね」

 千隼が口を開き、冷静かつ毅然とした声で言う。千隼の言葉には強い意志が込められており、周囲の同僚もその様子をじっと見守っている。

 屋代は一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに少しだけ肩をすくめ、「そっかぁ。じゃあ、ほどほどにしないとな」と軽い口調で返した。

 柚羽はその反応に心の中でため息をついた。

 屋代が外国での生活をどれほど経験しているのかは、柚羽にとってはどうでもよかった。屋代のチャラチャラした態度からは、悪かったと詫びるような真剣さが伝わってこない。そんな彼に、どれだけ注意を促しても効果は薄いのではないかと不安になる。

 千隼は顔色一つ変えずに屋代を見据えていたが、彼が柚羽の気持ちを理解していることは明らかだった。千隼は、柚羽に優しい視線を送っていたから。柚羽は少しだけ心が和むのを感じ、千隼の存在が自分を勇気づけてくれるような気がしていた。

「屋代さん! 本当ですよ。私の本性を知ったら震え上がりますからね!」

 柚羽は屋代が大人しくなるように……と得意気に言う。

 周囲の空気は微妙に緊張が漂っていたが、屋代の軽口がまた不快さを引き立てる。

「まぁ、気をつけるよ。お互い、楽しくやろうぜ」と言いながら、笑顔を崩さない。柚羽はその笑顔を見て、ますます胸が締めつけられる思いがした。

(本当に、何を考えているんだろう……)

 柚羽は心の中で叫び、少しだけ顔を背けた。

 自分の気持ちを大切にしたい、その思いが強くなる一方で、屋代に対する不快感は消えない。職場の雰囲気が気まずくなりそうな中、千隼が話題を変えようとする様子が見えた。

「そういえば、屋代さんは何か用事があったんじゃないですか?」

千隼が問いかける。柚羽はその言葉に救われる思いがした。

 屋代の軽薄さから話題が逸れ、少しでも自分の気持ちを整理できるかもしれない。話が進む中で、徐々に心の平穏が戻ってくるのを感じた。

「そうそう! 二人にお願いがあるんだけど……」

 その言葉を聞いた途端、柚羽の心にまた嫌な予感が広がった。何かろくでもないお願いが待っているに違いない。柚羽は思わず、屋代に疑いの目線を向ける。

「夏季慰労会の幹事をお願いしたいなって思ってたんだ」

 屋代の言葉に、柚羽は一瞬言葉を失った。夏季慰労会と聞くと、営業部に配属されてからは参加していないことを思い出す。

 受付係として参加した時のことを振り返ると、秘書課と合同で開かれたあの合コンのような雰囲気が蘇ってくる。楽しさの裏に潜む緊張感や、盛り上がりすぎた雰囲気が、どうにも居心地悪かった。

「何で私たちが?」

 思わず口に出してしまった言葉は、心の中の疑念そのものだった。柚羽は瞬時に、屋代の顔を見つめ返す。彼の目には無邪気な笑みが浮かんでいるが、その裏にある意図を察することができなかった。

「だって、三塚さんと野間口君ならみんなを盛り上げられると思ったから!」

 屋代の明るい声が響く。

 柚羽は、ますます嫌な気持ちが増していくのを感じた。屋代の言う『盛り上げる』という言葉が、どれほどの負担を伴うかを考えると、胸が締め付けられるようだった。

(私たちにそんなことができるわけないじゃない……)

 柚羽は心の中で叫び、千隼の顔を見た。千隼もまた驚いた表情を浮かべており、無言のうちに共感しているようだった。千隼は少し考え込むように視線を下ろし、何か言葉を探している。

 そんな千隼を前にして、柚羽は「実際にやったことないし、不安しかありません」と言うと、屋代はすぐに口を挟む。

「大丈夫、きっと楽しくなるよ!  みんなで協力すれば、素敵な会になるはず!」

 柚羽は、さらに感情が揺れ動くのを感じた。

(協力? 誰が協力するの? 幹事なんて、みんな他人事なんだからするわけないじゃない?)

 何か手違いがあったとしても、屋代がそう簡単に責任を取るとは思えない。いつも明るく振る舞う屋代だが、実際には裏で逃げるタイプなような気がしていた。

「でも、私たちが場所を決めたりするんですよね? 反対意見とか出たらどうしたらいいのか……」

 柚羽が少し慎重に尋ねる。屋代はその質問に一瞬たじろぎ、しかしすぐに笑顔を取り戻した。

「もちろん!  先にみんなの意見を聞くから安心して!」

 その返答に、柚羽はますます不安を募らせた。自分の意見が本当に尊重されるのかどうか、心の奥底で疑念が渦巻く。彼女は思わずため息をつき、心の中で葛藤し続けた。

(どうしよう、断りたいけど……)

 周囲の同僚たちの視線が気になり、柚羽の心はますます複雑になっていく。屋代の期待に応えたい気持ちと、仕事と両立しなくてはいけない自分の限界を越えることへの恐怖感が交錯する中、柚羽は何とか自分を励まそうとした。



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