考えてみれば放課後を女の子と2人っきりで過ごすなんて初めてだった。
しかも相手はとびきりの美少女だ。普通に歩いているだけでも通行人が彼女を見てかわいいとか綺麗とかひそひそと褒めていく。
そしてその隣を歩く僕と言えば、少し居心地が悪かった。道行く人がまず市道紫帆を見て、そのあと僕を見て不思議な顔をするのだ。
「柚臣くん。あれ乗ろっ」
彼女に連れてこられたのは海岸近くの観覧車だった。ここらへんじゃそれなりに有名で、僕たちが住んでいる街を象徴するかのような存在だ。
確か幼いころ、父と母と一緒に乗った憶えがある。どういう話をしたとかは憶えてないけれど、それでも、悪くない時間だった気がする。
「私観覧車乗ったことない。乗ってみたくない?」
「乗るだけなら別にいいけど。乗ったことないの? 乗ったことあると思ってた」
素直に言葉を返すと、市道紫帆は控えめに笑った。今日見せてきたどの笑顔とも違う、なんだか意味深な表情だ。
「ちっちゃいころ、乗ろうって約束したんだけど。なんか……乗れなくて」
前を歩きながら市道紫帆が語る。
約束、誰と約束したのだろうか。乗れなくてという言い方もよく分からない。
今ここで追及すれば、彼女は答えてくれるのだろうか。今の言い方は、言葉が出ないというよりも、意図的に隠しているようだった。
まぁ話したくなったら向こうから話すだろう。市道紫帆の華奢な後姿を眺め、僕は肩をすくめて歩き出す。
「あと落ちたらって思うと怖いんだよね」
「観覧車でそれを心配する人ってあまりいないと思うけど。普通ジェットコースターじゃないの?」
「あっ、あれも乗ったことないの。だってここのやつって海の上走るでしょ? 紫帆泳げないから、落ちたら大変」
「落ちた時点で泳げないとか関係ないと思うけど」
微妙に噛み合っていない会話をしながら観覧車の乗り場へとたどり着き、料金を払う。さすがにここは電子マネーやクレジットには対応していないみたいで市道紫帆に出してもらった。
「良かったぁ。今日ずっとご馳走してもらってばっかりだったし」
僕の分のチケットを買いながら市道紫帆がご機嫌な様子で呟く。女の子ってなんでも奢ってもらった方が喜ぶような気がしたのだが、どうにもそれだけってわけじゃないらしい。
平日の夕方ということもあり、あまり人は並んでいなかった。本格的に混むのは夜の時間帯だそうだ。恋人たちが夜の街を2人っきりで見るためにくるのだろう。
スムーズに案内され、2人で観覧車に乗り込む。僕は左側、市道紫帆は対面の右側だ。
「わっ、動いた動いた。上がってるぅ、上がってるよ柚臣くん」
「そりゃ観覧車だからね。まだまだ上がっていくよ」
可愛らしい感想にドライな返事をする。しかし向こうはそんなことよりもこの状況に興奮しているようで、小さな子供みたいに目をキラキラさせながら、閉め切った窓から外の景色を眺めている。
「これ、ヒーロー映画だったらてっぺん着きそうなところで悪役に襲われる場面だよ」
「なんでそんな嫌なこと言うんだ」
「ヒロインがたまたま乗ってて、戦いに巻き込まれるやつ」
「それだと犠牲になるのは君だけど」
「大丈夫。私には柚臣くんがいるから」
即座に返ってきた言葉に、僕はムッとする。どうして僕が助けなきゃいけないんだ。
「悪いけど、僕は逃げるよ。そんな状況なら自分を助けるだけで精一杯だし」
「そんなことない。柚臣くんはちゃんと助けてくれるよ。たとえ巻き込まれたのが私じゃなくても」
言って、市道紫帆がこっちを見る。
体は外を向いていて、目だけで僕を見てくすっと笑う。
なんだかこっちの意図を見透かされているような気がして、僕ははぁっと息を吐いて背もたれに寄りかかった。
「なんかきっかけはあったの? その、アメコミを読むきっかけみたいなの」
これ以上相手にペースを掴まれるわけにはいかない。彼女の内面を探るために、ひとまず話題を変えてみる。
「きっかけ? うーん、そういうのはあまり。でも、小さい頃から身近なものだったから」
「アメコミが? 珍しいんじゃない?」
「そうだと思う。周りの女の子はみんな少女漫画だったし。少年漫画を読んでる子もいたけど、アメコミを読んでる子はいなかったなぁ」
外の景色に視線を落としながら、市道紫帆が語る。まぁそうだろう。僕の周りだってアメコミを読んでる子、ましてや女の子だなんて、どこにもいなかった。
だけど彼女は、周囲の流れに合わせることはなく、ずっと自分が好きなものを求め続けたのだ。ヒーローとヒロインの存在を、その夢を胸に抱き続けた。
「そういうの読んでてさ、自分もヒーローになりたいって思わなかった?」
「ちょっと思ったよ。でも、私には特別な力なんてなかったから」
えへへと笑う市道紫帆――と思ったら突然ハッとして僕の方、正確には僕の頭上を凝視してくる。
怪訝な表情をする彼女に僕は嫌な予感を覚えながらも、とりあえず訊いてみた。
「なに、どうしたの?」
「ううん、今柚臣くんの後ろをなにか変なのが通ったような……」
「変なの?」
要領を得ない説明に僕が首をかしげている間にも、市道紫帆は席を立ち、両腕を少し広げながら近づく。
彼女にはいったい何が見えているのだろう。疑いのまなざしを向けたその瞬間――ビュオォッと風の音が鳴った。
「ひゃあぁっ!」
風のせいでゴンドラが揺れ、市道紫帆が悲鳴をあげる。
普通に座っていれば「少し揺れたね」くらいで済ませたのだが、状況は少し違う。
グラッと身体を揺らし、彼女がこちらへと倒れ込んでくる。
僕は咄嗟に腕を広げ、市道紫帆を受け止めた。
ドサッと音が鳴ると同時に鈍い衝撃と女の子らしい重みが加わる。
少しして揺れがおさまる。ちょうどてっぺんまで回ったところだったが、外を見る余裕なんてなかった。
「えっと、大丈夫?」
腕の中にすっぽりと収まった彼女へ声をかけてみる。
市道紫帆は僕の胸のあたりに頭を置いたまま、もぞもぞと顔を動かした。
「だ、大丈夫。その、びっくりしちゃって」
顔を赤くしながら彼女が答える。耳まで赤くなっていて、その表情を見るだけで僕も恥ずかしくなってくる。
ていうか、この状況かなり恥ずかしいんじゃないのだろうか。今のところ伸ばした腕はそのままだけど、少し動かせば抱きしめるようなポーズになってしまう。
それに、さっきからずっと密着状態なのだ。市道紫帆の髪から香る匂いや、しっとりとしていてなおかつ柔らかい身体の感触が直に伝わってきている。
特にお腹のあたり。制服を着ているというのに感じるこの確かな柔らかさは――バッと彼女の華奢な肩を掴み、一気に引き剥がす。
「い、いったん。無事なら一旦離れてくれ」
視線を右往左往させながら、どうにか手を離して身体を押すようなジェスチャーをする。
僕の決死なお願いが届いたのか、市道紫帆はまだ少し顔を赤くしたまま「わ、わかりました」と返事をして、ストンッと席に着いた。危なかった。これ以上くっついてたら、なんかこう、手を出しそうだった。
「……」
「……」
互いに無言のまま時が過ぎる。
すでにてっぺんを越えた観覧車。あとはもう下りていくだけだ。
「そういえば、さっき言ってた変なのってなんだったの?」
沈黙に堪えられなくなり、なんとなく訊いてみる。
市道紫帆はハッとして僕を見て、それから小さく頬を膨らませて斜め上に視線をやり、ぷすっと口の中の息を抜いた。
「流れ星だったと思う」
「流れ星? えっと、本当に? まだ夕方なのに? 見えたの?」
「ほ、本当だよ? なんかゆっくりで、チカチカ光ってたもん」
「……それ飛行機じゃない?」
「……そうかも」