胃薬を求めて、喫茶店をあとにする兎和くんを見送った。
それから私、加賀志保は、テーブルを挟んで正面に座る神園さんへ謝罪する。
「ごめんね、私のペースに付き合わせちゃったせいで……」
「ううん……自分で選んだのだから、加賀さんが謝る必要はないわ……」
フラスコに入ったコーヒーが音を立てる店内で、お互いポツポツと言葉を発する。
学内どころか芸能界でもトップを目指せそうな美少女を振り回した挙げ句、体調不良にさせてしまった。
顔を青ざめさせる神園さんは儚げでありながら、同性から見てもぞっとするほど色っぽい……同時に、ものすごい罪悪感を覚える。
思えば、クレープを買うあたりから私はちょっと暴走気味だった。
兎和くんが甘いもの苦手だと知らなかったのは仕方ない。けれど、神園さんが『彼はかなりの偏食よ』とさり気なくアドバイスしてくれたのに、自慢されたと勘違いしてムキになってしまったのは良くなかった。
つい嫉妬しちゃった……私は、兎和くんが気になっている。そんな相手のことを『自分の方がよく知っている』と言われたように感じてしまった。
そのせいで変なスイッチが入り、妙なハイテンションモードにもなるし……少し戸惑いつつも付き合ってくれた神園さんには、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
とはいえ、行動自体は普段とあまり変わらなかった。
私は食べるのが大好き。だから遊ぶときは、今日みたいに食べ歩きをする機会が多い。そして仲良しのバスケ部メンバーは、男女問わず大喜びで付き合ってくれる。
それだけに、兎和くんほど食べ物に対して繊細な男子が存在するなんて、想像すらしていなかった……正直、私の知る男友達とはぜんぜんノリが違う。
「兎和くんの食習慣って、とてもユニークでしょ?」
胃のあたりを擦りながら、神園さんがふと口を開いた。
まるで私の思考を読み取ったような問いかけに驚く。ていうか、ユニークという点では彼女も兎和くんに負けていない。二人とも、纏っている雰囲気が普通とはちょっと違うんだよね。
「彼のあの偏食は、ご家庭の方針によって培われたのよ。生来の嗜好による影響も大きいと思うけれど」
続く神園さんの話を受けて、私は思わず首を傾げた。
普通の親なら、子供の偏食を予防すると思うけど……兎和くんは、いったいどんな家庭環境で育ったのだろう。
「誤解しないでほしいのだけれど、虐待とは一切無縁の話よ。むしろその逆で、彼は非常に行き届いた『栄養コントロール』のもとで素晴らしい食生活を送っているわ。その結果、体に良いとされる食材ばかりを極端に好むようになってしまったみたいなの」
「……栄養コントロール?」
神園さん曰く、兎和くんのお母さんはアスリートフード系の資格を複数所持しており、その知識を活かした細やかな栄養管理に余念がないそうだ。
私が抱いた『家庭環境に対する疑問』はあっさり払拭される。
「でも、どうしてそんな手の込んだことを……あ、わかった! アレルギーの対策とか?」
「ううん、違うわ。Jリーガーを目指す兎和くんのことを、家族全員が真剣に支援しているのよ」
さらなる驚きに襲われて、ぽかんと口を開けた。
プロサッカー選手になるため、日頃から厳格に摂生しているそうだ……正直、ぜんぜん実感がわかない。だって、私の周りに『本気でプロを目指す人間』なんて一人も存在しないから。
そりゃサッカーに夢中な小学生の弟は、『将来の夢はJリーガー』とか屈託なく言うけれど……普通は中学生くらいで気づく、自分には特別な才能がないって。
プロスポーツ選手になりたい、そんな願望は冗談で口にするもの――それが私の認識。
確かに兎和くんはサッカーが上手で、栄成サッカー部も強豪と評判が高い。それでも『真剣にJリーガーを目指している』と聞けば、反射的に『無謀だ』と茶化してしまいそうになる。
おまけに家族から本格的なバックアップを受けているなんて、まるでスポ根マンガの登場人物の話でもされているように感じてしまった。
「ビックリしちゃったみたいね。でも、気持ちは理解できる。これほどの熱意で子供を支援するご家庭は少ないもの」
「うん……その、兎和くん自身は今の環境に納得しているの?」
「高校入学当初はサッカーへの情熱を曇らせていたわ。けれど色々あって、最近は前向きに頑張っているところよ」
詳細は教えてくれなかったけれど、兎和くんはメンタルの不調で思うようにプレーできていなかったそうだ。
しかし現在は、個人マネージャーの神園さんが主導するメンタルトレーニングを経て回復傾向にあるとか……なんでも、二人は個人的なマネジメント契約を結んだらしい。ちょっと意味がわからないけれど。
「だからね、一度よく考えてみてほしいの」
「考える……?」
「そう。加賀さんは、兎和くんが『気になる』と言っていたわよね。それでこの先、もしデートをした場合はどうなると思う? 多分、今日みたいな展開が待っている」
遠出をした際なんかはより問題が顕著になる、と神園さんは語る。
あらかじめリサーチしておかなければ、小腹を満たすことさえままならない。加えて兎和くんの嗜好にあわせざるを得ず、自分の希望を通すのはほぼ不可能。
もちろん別々に食事をすれば問題ない……だが、私としてはそれをデートと呼びたくない。
「これは、食事の話だけに留まらないわ。Jリーガーという高みを目指す以上、兎和くんは何よりもサッカーを優先する。だから、お誕生日やクリスマス、お正月にバレンタイン……世間一般の高校生が重視するイベントの日に、一緒に過ごせるかどうかもわからない」
確かに、サッカー部は今でも十分すぎるほどに忙しい。完全オフの日なんて、月に一回あるかどうかといったラインだと聞くし。
「まして高校三年間は、Jリーガーを志すうえで極めて貴重な期間よ」
身体的・技術的な成長は言わずもがな。主要大会で活躍してスカウトへ自分をアピールし、プロへの道を切り開くための重要なステップである。
高校時代に得た成果や経験が後のキャリア形成に多大な影響を与えることから、まさしく『Jリーガーになるための第一の正念場』と表現するに相応しい……とのこと。
「たとえ恋人になったとしても、食事からライフスタイルに至るまで、あらゆる面において兎和くんを優先する必要が出てくる。少なくとも、今どきの女子高生がイメージするような交際関係は成立しない――つまり、自分の青春を捧げる覚悟を求められる」
「自分の青春を捧げる……」
「でなければ足手まといになる。高校卒業時にJリーガーになれる確率は、たったの『0.2パーセント前後』と言われているわ。呆れるほど狭き門よね。幸い兎和くんの才能はずば抜けているから、多少のゆとりはできると思うけれど」
思わず声を失った。
まさか、これほど困難な夢を本気で追いかける同級生がいたなんて……そもそも私は、兎和くんがサッカーをプレーする姿に心を惹かれた。しかしそのサッカー自体が、関係を深めるうえでの障害になるとは完全に予想外だ。
それに、神園さんの言う通りかも……プロを志す人のそばにいるなら、きっとたくさんの努力や我慢が必要になる。
「何も『彼に近づくな』と言っているわけじゃないの。ただ兎和くんがどんな道を進もうとしているか、加賀さんには理解しておいてほしいと思って」
「……神園さんは、どうなの? 自分の青春を捧げられる?」
「兎和くんが再びサッカーに向き合うきっかけを作り、さらにJリーガーという目標をはっきり意識させたのは私なの――だから、青春くらい喜んで捧げる。彼が諦めない限りは個人マネージャーとして共に歩むつもりよ」
迷いなく断言する神園さんの青い瞳に射抜かれ、私は気圧されてしまう。
同時に、すんなり納得できた。抜群の美貌はもとより、とても優秀だと噂される彼女ならば、宣言どおり自分を律して兎和くんを支えることができそうだ。
私はさらに考え込む……別にいますぐ答えを出す必要はないけれど、せめて今後の距離感くらいは決めておきたい。
すると少しの間を置いて、神園さんが「偏食の件に戻るけど」と先に触れた話題を取り上げた。
「もともと兎和くんは、濃い味付けや脂っこい料理を受け付けなかったそうなの。幼いころは『鶏ササミの塩ゆで』しか口にしなかったんだって。食材や調理法を工夫して、ようやく今の状態にまで改善したらしいわ」
「えぇ!? もっとヒドかったんだね……ていうか、その話は誰に聞いたの?」
「兎和くんのお母さまよ」
またもや私は驚かされた。詳しく聞くと、勉強会の際に顔を合わせる機会があったらしい。
それはそうと、まるで張り詰めた空気を一新するような話題転換だった……恐らく、気を使ってくれたのでしょうね。さっきのアドバイスも含めて考えると、神園さんって案外お人好しなのかも。
「教えてくれてありがとう、美月ちゃん」
「え!? えぇ……どういたしまして、志保ちゃん」
きちんと話してみれば、神園さん――改め、美月ちゃんはとてもいい子だった。
最初の段階で私が間違ってしまったせいで、少しこじれてしまった。けれども、今は素直に友達になれたら嬉しいと思っている。
その後、お互い積極的に言葉を発して雑談を続けた。
「お待たせ。あれ、なんか雰囲気よくなってる……?」
しばらくして、喫茶店に戻ってきた兎和くんは目を丸くした。
いつの間にか女子二人が仲良くなっていたことに戸惑いを隠せないみたい。そんな彼の様子を見て、私たちは思わず笑みを交わしあった。