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第36話 動員と兵站

 荀彧も賈詡に負けず劣らず働いていた。

 五十万の兵士動員、戦費と兵糧の調達、兵站計画……。気が遠くなるほどの事務量があった。

 彼は尚書台の長官、尚書令である。その事務員を使うことができたが、完全に管轄外の仕事であり、時間外勤務をしなければ終わらない。

 曹操は丞相府の職員も一時的に荀彧の配下に置き、この激務に当たらせた。


 後漢時代には、禁軍と呼ばれた皇帝の親衛隊以外に、常備軍はなかった。

 一年あたり二か月の労役、兵役があり、必要に応じて軍隊は形成される。

 その他、徴募兵、義勇兵、降伏兵など、不安定なやり方で軍はつくられていた。


 曹操は兵戸制という常備軍制度を創設した。租税を免除するかわりに永代の兵役義務を課す。

 その家の男子は兵士となり、女子は兵士と結婚する義務を負う。

 これにより曹操は独自の常備軍を持っていた。

 その実数は不明だが、十万としておこう。

 荀彧は残り四十万を徴兵しなければならない。地方官に割り当て、集めさせるしかない。

 州牧、郡太守、県令に宛てた文書を作成、発送し、期限を決めて、兵を許都に送らせた。


 曹操の版図の八州には、約二千八百万の人民が住んでいた。

 ちなみに後漢末期の中国全土の人口は、約四千七百万人。

 荊州は六百万、揚州は四百万。

 すでに曹操の力は他を圧倒している。

 荊州の方が揚州より多くの人が居住しているのに、荊州を攻略する方がたやすいと考えられていたのは、総帥や参謀、将軍の質のちがいを見破られていたからであろう。


 兵糧を集めるのもむずかしい。

 後漢の税は、前述の労役、兵役の他に、人頭税、土地税、財産税、商税、畜税などがあった。

 しかし戦乱のため、多くの民が離散し、税が集めにくくなっている。


 曹操は税制改革を行った。

 屯田制を実施し、流民たちに耕作放棄地を与え、農具、耕牛を貸し、種子を提供することまでして、農業を振興した。

 軍屯と民屯があった。軍屯には兵役がともなう。

 民屯の税率は五割。重税だが、土地を持たず、流浪しつづけるよりはマシである。

 各地に田官を置き、税を徴収させ、倉庫に穀物を備蓄させた。

 これにより荀彧の兵站計画は立てやすくなっていたが、それでも五十万人の食糧を調達し、輸送するのは大変だ。

 巨大都市の全人口が移動しつづけるようなものである。荀彧は、曹操が帰還するまで、気の休まる暇もなかったであろう。


「荀彧、ご苦労」

 曹操はときどき、ねぎらいの言葉をかけた。

「賈詡殿が倒れたと聞きました。私もがんばらねばなりません」

「そなたまで倒れると困る。無理はするな」

「ありがとうございます」

 だが、無理をしなければ、遠征準備が整わない。

 荀彧は曹操の覇業に奉仕しようと決めている。

 曹操もこの抜群に有能な臣に頼らざるを得ない。

 王佐の才は、働きつづけた。


 208年7月、曹操軍五十万は、許都を後にし、荊州へ向かって出陣した。

 領内の潁川郡を進んでいく。

 許都から潁陰、潁陽、襄城、父城へ。

 父城県を過ぎると、敵地荊州南陽郡に入る。


 荊州政府は、許都に大軍が集結しつつある時点で、侵攻を察知していた。

 この頃、荊州牧の劉表は重病を患っており、曹操軍が州境を越える直前に、世を去った。

 長男は劉琦だが、異母弟の劉琮が跡目を継いだ。劉琮の母、蔡夫人とその弟、蔡瑁が力を持っていたからである。

 劉琦は、劉備の軍師、諸葛亮の助言に従って、後継者争いから身を引き、首府の襄陽を離れ、江夏郡太守となっていた。


 新荊州牧の劉琮のもとで、曹操軍と戦うか、降伏するかを決める会議が開かれた。

 劉琮は抗戦したかった。

 しかし、蔡瑁ら重臣がことごとく反対した。大軍と戦い、死にたくないという本音を隠し、民のため、平和のためと綺麗事を並べ立てた。

 若い荊州牧に、部下たちに戦いを強要する剛腕はなかった。結論は降伏。

 この決定に、劉備はまったく関与することができなかった。

 荊州の重臣たちは、不気味な存在感を放つ劉備を蚊帳の外に置いていた。

 彼は反曹操の急先鋒と見られており、降伏派にとっては邪魔でしかなかったのである。


 劉備は、劉琮が降伏の使者を出した後で、ようやく事態を知った。

 諸葛亮は、友好関係にある劉琦が治める江夏郡への撤退作戦を急遽立案した。 

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