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9 外法頭

それからどれくらいの間、一点の光もない家の中でもがき続けただろう……」?


物につまずき、ぶつかり、危うくその場でひっくり返りそうになりながらも――、転がるようにしてうちは外に飛び出していた。


そこは勝手口だった。

改めてうちはたった今、飛び出してきた家を見回す。


最初から違和感や予感はあった。

だけど、いざ真実を目の前に突きつけられると膝から崩れ落ちそうになるほどの衝撃を受ける。


うちが通された東雲家はまがうことなき廃屋だった。

人が住んでいるとは到底思えないような。ましてやインターフォンが通じているはずもない。


かつては白かっただろう土壁は黒ずんでいたし、心無い輩による心無い言葉がそこかしこにスプレーで落書きされていた。


一際目を引いたのは、幽霊屋敷とか、赤ん坊喰らい犬の家と言った言葉……。


正直に告白すれば、うちはそのまま逃げ出したかった。

自分でもすごく情けないとは思うけれど、お父さんやリョウに泣きついて後のことは任せてしまいたかった。


だけど、それはできなかった。


ここで逃げ出すのはあまりに無責任だと思った、と言うのもある。

だけど、うちを本当にこの場に留まらせたのはそんな義務感とかじゃない。


うちはあの子と、アンディーと会って話がしたかった。


これは一体どういうことなんや、と問い詰めたかった。なんでこんなことになったのか、あののん気そうな顔をどつき回してでも理解させたかった。


だけど、それだけじゃなくて……


うちはアンディーを抱きしめて、一緒に泣いて、アンディーが傷つけ、苦しめた東雲家の人達に謝りたかった。謝って頭を下げて、どうかこの子を許してあげてくださいって地面にひれ伏したかった。


ボロボロ、ボロボロと馬鹿みたいに涙をこぼれ落ちさせながらうちは雑草の生い茂る庭へと向かった。


夕陽の染まった空の下、うちは頭がグラグラ揺れるのを感じていた。


アンディーの姿はすぐに見つけることができた。


すっかり水の干上がった石造りの池のほとりで――、ゴールデンレトリーバーのキグルミのような姿をした犬の怪異はうちに背を向け、その場に両膝をつき、懸命に地面の土を掻きだしていた。穴を掘っているのだ。


うちは大きく深呼吸をしていた。

そして意を決し、モフモフとした毛並みに包まれた背中に声をかける。


「アンディー。……もう行こ? この家にはもう誰も」


おらんから、とうちが言いかけた時だった。


ムクリとアンディーが立ち上がり、こっちを振り返る。アンディーは両腕に何かを抱きかかえていた。土の中から掘り返されたであろう、ドロドロに腐敗した塊をうちは最初、生ゴミか何かだと思った。


だけど、違った。


その二つの塊には毛が生えていた。虫に食われ、骨の覗く足の先には崩れかけた肉球がついていた。それぞれ、形状の異なる尻尾も生えていた。


二つの腐り果てた肉の塊がもとは犬であろうことはうちにも想像がついた。


だけど、その頭部は鈍器のようなもので何度も殴りつけられ叩き潰されていて、犬に疎いうちにはそれがどんな犬種なのか到底判断がつかなかった。


全身から力が抜け、ヘナヘナとうちはその場に崩れ落ちていた。

東雲さんの、かつてこの家の主だったモウジャの言葉がうちの中で響く。


――残った犬二頭も同様に処分しました。


ウソや。

そんな酷い話、あるわけないやろ。

ふざけんな。


「――トムとジェリちゃんです……」


腐り果てた肉の塊を抱きしめたまま、アンディーが低く唸った。


「パパが二人を埋めました。痛い痛いって泣いていたのに。許してって、やめてってお願いしたのに」


「待って、アンディー。お願いやから・・・…」


自然と声が震える。


と、その時――。

まるで動画の自動再生ように、うちの脳裏に一連の映像が浮かび上がる。


背景は赤く滲む夕焼けの空。


庭に二頭の犬――チワワと柴犬の首に綱をひっかけ、引きずるようにして連れてきたお爺さんは東雲さんだ。アンディーがトム、ジェリちゃん……兄弟と呼んでいた犬達は尻込みをし、まるで狂ったような金切り声で泣き叫んでいた。


そんな犬達の綱を踏みつけ、身動きを封じた東雲さんは金槌が握りしめられていた。

手を細かく震わせながらも東雲さんはそれを大きく振りかざす。


東雲さんは笑うような、叫ぶような陰惨な表情を浮かべていた。

ギラギラと光る二つの瞳から血のように赤い涙が伝い落ちる。


「全部あいつが悪いんだっ……! 怨むならあいつを怨め!」


絞り出すような声とともに金槌が振り下ろされ――、悲痛な犬の断末魔が夕闇に染まり始めた住宅街に響き続けた。


「うぶっ……」


強烈な吐き気が込み上げ、うちは口元を両手で押さえていた。


その間にも惨劇を伝える映像は回り続ける。


もう見たくはなかったけれど、目を塞いでも無駄なことはわかっていた。

この映像はうちの心の中で再生されている。


そして、それを伝えているのはアンディー……。

多分、この庭に残された記憶を嗅ぎ取り取り込んで――無意識に流し込んでいるんだと悟った。


と、アンディーの瞳がグルリと反転し、瞳孔のない白眼となる。


続いて上半身に奇怪な変異が発生。

空気を吹き込まれた風船のように大きく膨れ上がり、前足を包んでいた手袋が内側から引き裂かれ、なかから鎌のように鋭い爪が三本飛び出してくる。


喘ぐように苦しそうに口には白鋭い牙がメキメキと生え伸び、その間を粘り気のある唾が糸を引いて光るのが見えた。


つい数十分前のアンディーと同一の存在だとは、到底信じられない異形の姿だった。

それは誰の目から見ても怪物そのものだった。最初からこの姿だったのなら、うちも決して近づくことはなかっただろう。


だけど……。


「助けて、キミカちゃん! アンディーの、アンディーの身体がおかしいです!」


子どもが泣き叫ぶような声が頭の中で響く。

それに弾かれるようにして――思わずうちは怪物と化したアンディーに手を伸ばしていた。


ガアッ、とアンディーが吠えた。怒りに満ちた咆哮だった。

爪の生えた前足でうちの身体を押し倒し、その大きな体で覆いかぶさって来る。


そして、うちの肩に重く焼きつけるような激痛。

アンディーに噛みつかれたのだ。


文字通り、肉が穿たれる痛みに全身がひきつり、悲鳴すらあげられない。

皮膚が血管が引き裂かれ、ビチャビチャと湿った音を立てて大量の血が地面に吸い込まれてゆく。


「どうして? どうしてパパはトムとジェリちゃんに痛いことしますか?」


アンディーは泣いていた。

飼い主である東雲さんと同じようにその瞳に鬼火を宿して。


やっぱり、とうちは思った。

アンディーは自分の身に何が起きたのか、全く理解できないまま殺処分されてしまったんやな、と。


当たり前と言えば当たり前だ。

アンディーは人間に近すぎたとは言え、その本性は無垢な動物。

人間の善悪など理解できるはずもない。


嬉しければ人間に向かって尻尾を振り、空腹になれば餌をねだる。機嫌が悪ければ唸り声をあげ、自分の身に脅威が迫っていると感じれば噛みつく。


ただ、それだけだ。


うちの肩を上下の顎で挟んだまま、アンディーがすすり泣くような声で鳴いた。

犬が悲しい時に出す、あの胸を締め付けるような切ない鳴き声だ。


……かわいそうなことをしてしまった。

全部、うちが悪い。神様に言われた通り、まっすぐアンディーを童ノ宮うちが余計なお節介をしたせいで、この子をこんな化け物に変えてしまったんや。


血が喉に絡まり、うちは激しくせき込む。息が詰まり、気が遠くなる。

意識が途絶える前にうちはアンディーに謝りたいと思った。


だから、うちは片手をあげて、アンディーの鼻面を撫でようとして……。


オン アロマヤ テング スマンキ ソワカ。

オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ。


真言――唱え事をする声が聞こえた。

もちろん、声の主はうちじゃない。


と、ヒュンという空気を裂く音が聞こえた。

次の瞬間、うちの肩を万力のような力で挟んでいた顎が離れ――、アンディーの身体が空中に浮かび上がった。


いや、違う。


浮かび上がったわけやない。縛りあげられ、吊るしあげられているんや。

夕映えの中、黒い糸のようなものがアンディーの身体の周りに張り巡らされている。

緻密な幾何学模様を描いたそれは巨大な蜘蛛の巣に似ていて。


「コウちゃん!」


肩からあふれる血に頬をよごしながら、うちは叫んでいた。


庭の入り口に従兄弟が、――塚森コウが立っていた。

端正だけど古傷だらけのその顔は空恐ろしくなるほどの無表情。


右手に掲げるようにしてコウが持っているのは髑髏だった。

金箔が貼られ、呪術的な模様がびっしりと描きこまれた人の頭蓋骨。

黒い糸は髑髏の眼窩から溢れ出るようにして吐き出されていた。


お父さんから聞いたことがある。


外法頭。それは塚森家に古くから伝わる強力な呪物であり、それを操るための外法の術の名前。非業の最期の遂げた人間の遺骸とそこに宿る無念を利用してこしらえ、呪詛打ちを行うそうだけど、うちも実際にこの目で見るのは初めてだった。


そして、お父さんから聞いた通りなら。

あの外法頭はコウのお母さん――、塚森サヤカさんの頭蓋骨と言うことになる。


空中に吊るされたアンディーにコウの視線が向けられる。

その瞳にはいかなる感情、怒りや悲しみ、憐れみはもちろん、獲物を捕らえたという喜びさえも感じられなかった。


コウの瞳にあったのは虚無。

ただ真っ暗な闇だけがどこまでも広がっているだけ。


「お願いやからやめて! そんなこと、せんといて!」


その空っぽさに心底ゾッとするのを覚えながら、うちは叫んでいた。

コウが何をする気なのか、手に取るようにわかったから。


「この子のことはうちが……! 神様に連れておいでって……!」


「知るか」


返って来た応えは、短く冷たかった。

と、外法頭を掲げた手と反対側の手をグッとにぎりしめ、そのまま下に引き下ろすような仕草を見せる。


うちはアンディーを見た。


アンディーもうちを見ていた。悲しそうに。

涙のたまった瞳でアンディーはうちを見ていた。


次の瞬間、コウの掲げ持つ外法頭から目には見えない電流にも似たエネルギーが流れ込み――アンディーの姿は消えていた。


特撮ドラマみたいに派手な爆発も花火が撃ち上がるのもなし。


アンディーは弾けて消えた。

風にあおられたシャボン玉みたいに。


一瞬、世界から全ての音が失われたかのような感覚にうちは捕らわれる。


と、舌打ちする音が聞こえた。

コウだった。


「全く余計な仕事させやがって」


自分のお母さんの頭蓋骨――、外法頭を呪術的な装飾のある箱に収容しながらコウが言った。


「組織との契約は一か月、あいつの監視と報告書の作成だからな。お陰で報酬がパァだよ。どうしてくれるんだ?」


「コウちゃん、あんた……」


思わずうちは従兄弟を睨んでいた。

お腹の底から絞り出した声は自分でも耳障りなほど濁っていた。


そんなうちには構うことなく、コウは言葉を続ける。


「言っておくけど、経費分はレイジおじさんに払ってもらうからな。……ほら、立てよ。人目についたら何かと面倒だからな」


そう言ってコウが手を伸ばして来る。

ブツッとうちの頭の中で何かが音を立てて切れた。


「――なんで!? なんで、あんなことすんねん!? やめてって言うたやろ!?」


差し出された手を払いのけ、うちはコウにつかみかかっていた。

間違った行為だと頭では理解していた。だけど、うちは自分の感情が押さえきれなかった。


バンバン、とコウの胸元を平手で叩き脛を蹴飛ばそうと爪先を飛ばす。

腹立たしいことに全部、寸前でよけられていたが。


「あの子は、アンディーはただパニックを起こして他だけや! それやのに、よくも、こんな酷いこと……!」


「あぁ、もう! 鬱陶しいなぁ!」


短く怒声を張りあげるコウ。


肩を――怪我をしていないほうを指先でトンと押される。

軽く触れられただけのように感じたが、それでもうちは後ろに身体を派手に転倒させられていた。


「ギャーギャー騒ぐなよ。……頭の上の蠅も追えない子どもの分際で」


コウの口調には、溢れた悪意が滴り落ちるような響きがあった。

冷たくうちを降ろす瞳には煮えたぎるような光――、鬼火が宿っているのが見えた。


東雲さんやさっきのアンディーと同じ……。


「大体、こうなったのは誰のせいだ? 僕はあの怪異にかかわるなって警告したよな? それを無視して……そんな大怪我まで負いやがって」


そう言ってコウはうちの鼻先に人差し指を突きつける。


「お前だよ、キミカ。お前が、お前のその無責任な善意とやらが僕にこんな胸糞の悪い仕事をさせたんだ」


「……」


反論はできなかった。

当然だ。コウの言うことはすべて正しい。


だけど、それでもうちには受け入れがたかった。

唇を噛みしめるようにして顔を背ける。


「……ああ、そうかい。じゃあ勝手にしなよ」


うちの拒絶にコウが鼻を鳴らす。


「だけど、一つだけ忠告しといてやる。……この程度のことでベソかいてるようじゃ塚森家の人間でいることなんて到底無理だ。恋人でも何でも、守ってくれそうなやつを見つけけて――、さっさっと出て行け」


うちは答えず、荒れ果てた庭の地面を睨みつけていた。

呆れたようにコウがため息をつき、足音を立ててこの家を去るまでずっとそうしていた。


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