目を開くと、天井が見えた。頭がぼうっとするなか、なんとか起き上がる。濡れた布が落ちた。額に置かれていたのだろうか。
見回すと、そこはかよの部屋だった。たしか聖樹に祈りを捧げに行っていたはず。
(なんで部屋のベッドにいるんだろう?)
かよがベッドから出ようとしたとき、隣の部屋への扉が開く。大垣が銀の
「品川さんっ。よかった、起きて。彩芽、品川さん起きたっ」
どうやら大垣の部屋にいたのか、下野も現れた。2人とも、かよのもとに駆け寄って、抱きついてきた。床に落ちた銀の桶から水がすべてこぼれた。
「品川さん、よかった。こ、このまま目が覚めなかったらって、アタシたち……」
「そうですよ、わたしたち、すごく、すごく……」
どうやら、ずいぶんと心配させたようだ。唯一心を許せる大人がいなくなるかもしれなかったのだ、ずいぶんと不安だっただろう。かよは2人の背中を撫でる。
「不安にさせてごめんね」
かよから離れた下野が目元をこすりながら言った。
「ケイって騎士さんから聞いた。アタシらを早く帰すために、ずっと1人でたくさん聖樹に祈ってたって。アタシら、たしかに早く帰りたいけど、品川さんが倒れてまで帰りたいなんて、思わない。だから、だから……もう1人で無茶しないでっ」
「彩芽の言うとおりです。わたしと彩芽じゃ頼りないかもしれないけど、1人で抱え込まないでください」
大垣はいっそ強く、かよに抱きつきながら言った。
「ありがとう。……2人とも、ちゃんと休んでる? 私ならもう大丈夫だから、休んで」
「またそうやって無理しようとするーっ。アタシ、今日は離れないっ」
「わたしもです、元気になるまで、この部屋にいます」
そのとき、廊下側の扉がノックされた。かよの代わりに大垣が「はい」と返事をした。姿を現したのはケイだった。
「聖女様っ。ああ、よかった。目を覚まされたのですね」
ケイも安堵したような表情で言った。
「すみません、ずいぶんとご迷惑を……」
すると下野と大垣が声を張り上げた。
「「迷惑なんかじゃないっ」」
かよは予想してなかった2人からの言葉に、目を見開いた。
「品川さん、いつだってアタシらのこと考えてくれてた。そんな人に無理させてたのに、迷惑だなんて思うはずないじゃん」
「そうです、彩芽の言うとおりです。迷惑なはずありません」
「2人とも……」
大垣は涙を拭くと、放り出した銀の桶を拾い上げた。
「わたし、もう1度水入れてきます」
「アタシも行く」
下野と大垣が隣の部屋へ水を入れに行った。どうやら、かよの部屋であることに気を遣ってくれているようだ。
「申し訳ありません、聖女様。お2人に多く祈っていたことを話しました」
「いえ、大丈夫です。……迷惑じゃない、なんて初めて言われました」
「え?」
ケイが不思議そうに声を上げた。かよの頭の中に、これまでの人生でかけられてきた言葉が響く。
「今まで道具として思われてきたが多くて。……そういえば、新人の頃、風邪をひいたときに『ほんと、迷惑考えて風邪ひけよな』って言われたことがあります」
たしか担当している営業の男性から言われた気がする。かよが休んだせいで、仕事が間に合わず、新規顧客の獲得がうまくいかなかった、と話していたか。さらに思い出すのは、母や会社の同僚たち。彼女たちにとって、かよは便利な道具でしかない。そして、今は【ジュネの祈り】の、世界を維持させるための……。
(まさか、迷惑じゃないって言ってくれる人がいるなんて。……心配してくれる人がいるなんて)
下野と大垣の言葉だけで、かよはこれからも生きていけるかもしれない。
そのときケイが、かよのほうを向き、片膝をついて言った。
「聖女様。あなたは聖女である以前に、人です。この世には、ぞんざいな扱いを受けていい者など、1人としていないのです。ですから、どうか……ご自身を道具などと思わないでくださいませ」
ケイの青い目が意外にも美しいのだと、初めて気がついた。まるでサファイアだ。いや、目だけではない。黒く短い体毛も、細い尻尾も黒曜石のように美しい。
そのとき、下野と大垣が戻ってきた。
「品川さん、2日も寝込んでたんですよ。よければ体拭きませんか? 気持ち悪くないです?」
「ほらほら、男の人は出ていって。なにかあれば呼ぶからっ」
下野がケイをぐいぐいと押して、部屋から追い出した。かよはそんなやりとりを見て、思わず小さく笑った。
「彩芽、ほんと強引。あ、品川さん。背中届きませんよね、わたし拭きますよ」
「え、でも……」
「あ、アタシ、なんか軽く食べれるもの頼んでくる。おなかすいてるでしょ、品川さん」
下野が部屋を出て行き、大垣に背中を拭かれる。わざわざ湯を入れてきてくれたようで、熱に自然と心がほっとする。
かよはゆっくり目を閉じる。
(まさか異世界でこんなに……よくしてもらえるなんて)
聖女だからか、大人だからか。だが、どちらでもいい。今のかよにとっては、純喫茶に行くよりも、元の世界に戻ることよりも、嬉しいことなのだから。